2017年5月アーカイブ

用事があり新橋へ行った帰り。有楽町で献血募集の案内をしている男性を見かけた。新宿や秋葉原など繁華街で何度も見たことの有る光景。
なぜか今日はこれに応えてみようという気になり、交通会館の6階の献血ルームに入った。人生初めての献血(学校や会社でみんなで献血をするところも有るのだろうが、自分はそのような機会に接したことは無い)。

意外と混雑していて平日の午後4時に20-30人くらい人が居る。30歳前後くらいの人が多いが、みんな何している人なんだろう。雑誌を見たり無料の飲み物を飲んでくつろいでいる。
入ってすぐの受付でアンケート。海外渡航経験の質問が難しく、正直に答えていると受付の人では手に負えないらしく、医師のブースへ。
「4週間以内に海外」は無いが、3年以内に行った国なんて...「中国では市街地以外に行ってませんよね?」「コレラですか...いつですか」「腕の手術の際に輸血はしてないか」など微妙な質問が多い。ヨーロッパ、特にイギリスの滞在歴が重要。自分が行った"ロシア"はシベリアだったので"ヨーロッパではない"らしい。1個づつ黙々と端末に入力する医師に申し訳なく感じる...

400ccの採血にかかるのは10分ほどだが、その他の問診や検査をあわせると所要1時間ほど。
ジュースやスープなどの飲み物は飲み放題だが、アイスクリーム(レディーボーデン)は1人1個。お菓子はまぁ軽く置いてあるくらい。採血中のベットには1人1台テレビが有り、雑誌を読んでいるとまぁ時間はあっという間。
都心で1時間ほどぽっかり時間が空いた時には良い暇つぶしになる。軽い健康診断にもなるので定期的に受けると良いかもしれない。"献血クラブ"にも入った。

400ccは体内の血液の8%ほど。その時は特に意識しなかったが、今は何か疲れているような気がする。頭に血が上っている、興奮している時に血を抜くと気は落ち着くのか?
日本に鉄砲が伝来したのは1543年、種子島。嵐に遭って漂着していた船には明(中国)とポルトガル人商人が乗っていた。嵐の後の浜で巨大な船を発見した村の地頭が筆談でやりとりをし、水や食料を求めた彼らを島の領主 種子島時尭の屋敷へと連れて行った。初めて鉄砲を見た彼は、その場で自分で鉄砲を撃ってみてその有用さを理解した。
この話を自分が初めて知ったのは小学校の時に読んだ「まんが日本の歴史」。小学校の教科書にも載るくらいの、たぶん日本人のほとんどが知っている話。でも知れば知るほど、それは偶然と必然が混じったすごい話であることが分かる。

当時の日本は戦国時代初期。日本の各地で群雄割拠。幕府・中央政権の権威が弱まり国中が混乱していた。こんな日本の僻地(失礼)、片田舎の村で、明の商人と筆談出来る能力を持つ人物が居たのだ。彼らは中国人とやりとりをする為に漢文を学んでいたのではない。そもそも中国人と遭遇することはまず無いからだ。現代の自分達が外国人と意思疎通をとる為に英語を学ぶのとは意味が違う。
そこに突如現れたヨーロッパ人が持っていた鉄砲を見て、それがすごいものであると彼が見抜いたことから、日本の歴史は大きく動いていく。
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次に会った種子島時尭も凄い。まず驚く点は当時16歳だったこと。そしてその若い彼が今まで見たことも無い明(中国)やポルトガル人(何度も書くがいきなり現れた異邦人)とちゃんと応対したことだ。かなり聡明な人物だったはずだ。田舎に住む16歳の男の子がだ。
当時難破した船は襲われるのが常だった。国際法なんて無い。船の積荷は天からの恵み物なのだ。
彼がそこで「全員皆殺しにしろ」と一言言っていたらその後の日本はどうなっていたのだろうか。
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彼はポルトガル人から2丁の火縄銃を貰う。いや火縄銃なんて言葉は無かった。その後に出来た言葉だ。すぐに鍛冶師にこれと同じものをつくらせた。
この時この鍛冶師は日本で初めて"ネジの仕組み"を知る。蓋を何度たたいても開かない。かなりの時間をかけてある事に気付く。「回せば簡単に開くじゃないか、そしてまた反対方向に回せばまたしっかりと閉まるじゃないか!」
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この時に会ったポルトガル人はアユタヤ(タイ)から明への渡航中だった。鉄砲はヨーロッパからアフリカ・モザンビークやゴア(インド)、マラッカ(マレー)、マカオなどを経てやって来た。もちろんそれぞれの土地に住む者は鉄砲を目にしている。でもそこで鉄砲を自分で作ったものは居ない。日本人だけが成し遂げたのだ。
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それからわずか数十年後。日本は鉄砲の大生産国になる。戦国時代末期には日本から大量の武器が各国に輸出されて、世界の歴史を変えていく。
種子島の浜にポルトガル人の乗った中国船が漂着したのは偶然だが、鉄砲の普及は当時の日本人が知識欲を持っていたからで、必然だった。


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