用事があり新橋へ行った帰り。有楽町で献血募集の案内をしている男性を見かけた。新宿や秋葉原など繁華街で何度も見たことの有る光景。
なぜか今日はこれに応えてみようという気になり、交通会館の6階の献血ルームに入った。人生初めての献血(学校や会社でみんなで献血をするところも有るのだろうが、自分はそのような機会に接したことは無い)。

意外と混雑していて平日の午後4時に20-30人くらい人が居る。30歳前後くらいの人が多いが、みんな何している人なんだろう。雑誌を見たり無料の飲み物を飲んでくつろいでいる。
入ってすぐの受付でアンケート。海外渡航経験の質問が難しく、正直に答えていると受付の人では手に負えないらしく、医師のブースへ。
「4週間以内に海外」は無いが、3年以内に行った国なんて...「中国では市街地以外に行ってませんよね?」「コレラですか...いつですか」「腕の手術の際に輸血はしてないか」など微妙な質問が多い。ヨーロッパ、特にイギリスの滞在歴が重要。自分が行った"ロシア"はシベリアだったので"ヨーロッパではない"らしい。1個づつ黙々と端末に入力する医師に申し訳なく感じる...

400ccの採血にかかるのは10分ほどだが、その他の問診や検査をあわせると所要1時間ほど。
ジュースやスープなどの飲み物は飲み放題だが、アイスクリーム(レディーボーデン)は1人1個。お菓子はまぁ軽く置いてあるくらい。採血中のベットには1人1台テレビが有り、雑誌を読んでいるとまぁ時間はあっという間。
都心で1時間ほどぽっかり時間が空いた時には良い暇つぶしになる。軽い健康診断にもなるので定期的に受けると良いかもしれない。"献血クラブ"にも入った。

400ccは体内の血液の8%ほど。その時は特に意識しなかったが、今は何か疲れているような気がする。頭に血が上っている、興奮している時に血を抜くと気は落ち着くのか?
日本に鉄砲が伝来したのは1543年、種子島。嵐に遭って漂着していた船には明(中国)とポルトガル人商人が乗っていた。嵐の後の浜で巨大な船を発見した村の地頭が筆談でやりとりをし、水や食料を求めた彼らを島の領主 種子島時尭の屋敷へと連れて行った。初めて鉄砲を見た彼は、その場で自分で鉄砲を撃ってみてその有用さを理解した。
この話を自分が初めて知ったのは小学校の時に読んだ「まんが日本の歴史」。小学校の教科書にも載るくらいの、たぶん日本人のほとんどが知っている話。でも知れば知るほど、それは偶然と必然が混じったすごい話であることが分かる。

当時の日本は戦国時代初期。日本の各地で群雄割拠。幕府・中央政権の権威が弱まり国中が混乱していた。こんな日本の僻地(失礼)、片田舎の村で、明の商人と筆談出来る能力を持つ人物が居たのだ。彼らは中国人とやりとりをする為に漢文を学んでいたのではない。そもそも中国人と遭遇することはまず無いからだ。現代の自分達が外国人と意思疎通をとる為に英語を学ぶのとは意味が違う。
そこに突如現れたヨーロッパ人が持っていた鉄砲を見て、それがすごいものであると彼が見抜いたことから、日本の歴史は大きく動いていく。
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次に会った種子島時尭も凄い。まず驚く点は当時16歳だったこと。そしてその若い彼が今まで見たことも無い明(中国)やポルトガル人(何度も書くがいきなり現れた異邦人)とちゃんと応対したことだ。かなり聡明な人物だったはずだ。田舎に住む16歳の男の子がだ。
当時難破した船は襲われるのが常だった。国際法なんて無い。船の積荷は天からの恵み物なのだ。
彼がそこで「全員皆殺しにしろ」と一言言っていたらその後の日本はどうなっていたのだろうか。
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彼はポルトガル人から2丁の火縄銃を貰う。いや火縄銃なんて言葉は無かった。その後に出来た言葉だ。すぐに鍛冶師にこれと同じものをつくらせた。
この時この鍛冶師は日本で初めて"ネジの仕組み"を知る。蓋を何度たたいても開かない。かなりの時間をかけてある事に気付く。「回せば簡単に開くじゃないか、そしてまた反対方向に回せばまたしっかりと閉まるじゃないか!」
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この時に会ったポルトガル人はアユタヤ(タイ)から明への渡航中だった。鉄砲はヨーロッパからアフリカ・モザンビークやゴア(インド)、マラッカ(マレー)、マカオなどを経てやって来た。もちろんそれぞれの土地に住む者は鉄砲を目にしている。でもそこで鉄砲を自分で作ったものは居ない。日本人だけが成し遂げたのだ。
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それからわずか数十年後。日本は鉄砲の大生産国になる。戦国時代末期には日本から大量の武器が各国に輸出されて、世界の歴史を変えていく。
種子島の浜にポルトガル人の乗った中国船が漂着したのは偶然だが、鉄砲の普及は当時の日本人が知識欲を持っていたからで、必然だった。
中国ではfacebook もgoogle も使えないのだった。
新橋からの帰りに 警察博物館に寄った。企画展「 地下鉄サリン事件から20年」。
無料施設に文句は言えないが、特に深く切り込んで紹介されているわけではない浅い展示。ただこの事件は警視庁にとって戦後最も大きな事件だったというのが分かる内容 (ちなみに次点はあさま山荘事件)。
当時の警察無線がBGMとして流れている。次々と無数の通報が都内各地から一斉に入るが、何が原因なのか分からない。化学防護服やガスマスクの常備量は限られる...膨大な数の負傷者、道路に倒れた人や救護車両で起こる大渋滞...(世界史上初の都市で起こった化学物資テロ、死者13人,負傷者6300人?)が緊迫した声で分かる。
警視庁警察官へのアンケートでも「全警察官の心が一つになった日」という回答があった。展示はその後の上九一色村の施設への強制捜査の際の写真、防護服の展示、教団の施設位置を示す地図などだけなのだが、事件の風化を少し止める効果くらいは有るだろう(自分も日常生活で思い出す事は全く無い)。
他のフロアでは女性警察官の歩み、殉職警察官の紹介、明治時代のフランスへの警察組織視察の報告、西南戦争 (政府軍には多くの警官が警視庁から派遣された)の資料など。のんびり見て約1時間。ランチを食べ損ねた。
地下鉄サリン事件から20年という。自分は直接体験していないので事件の記憶は薄いのだが、こんな大規模テロ(同時刻に死者・重軽傷者6300人、影響は数万人以上)が東京で発生しているのだから、"日本は安全"と言い切ることは出来ないなと思う。

霞ヶ関駅での被害が大きくとりあげられているが小伝馬町駅でも死者4人、重軽傷者1600人以上も出ている事を今更ながら知る。家の近くでこんなに被害が出ていた事、そして今まで気付いていなかった事に驚いた。

自分は大学1年生だった。この年は1月に阪神大震災、地下鉄事件の次の週には警察庁長官狙撃事件(いまだ未解決)も起こり、世情は騒然としていた記憶はある。それでもわずか20年で記憶は薄まり、事件の概要を知らない人(自分も含めて)が居るのだから、人間の"忘れる力"というのも大したものだ。

八王子スーパー強盗殺人事件(これも未解決)や、オウムが起こした多くの事件(東京都庁小包爆弾事件や公証人役場事務長逮捕監禁致死事件)などが東京で頻繁に起こっていたわけで、事件記録を読んでいたら何だかんだ言っても、この頃と比べると今は平和なんだけど...


[地下鉄サリン事件20年 当時14歳の少女は3児の母に]
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00288572.html
菊川(墨田区)に用が有り、先週行った際に地下鉄駅前の掲示板にあった「東京大空襲70年法要のお知らせ」のビラがに気付いた。すっかり忘れていた。




今日は首相も参加する東京都主催の慰霊式典も行われた。夕方、手が空いた時間に両国の 東京都慰霊堂に自分も行ってきた。式典は終わっていて人もまばら...と言うか皆無だったが、復興記念館の展示もじっくりと静かに観れた。

東京大空襲については自分の周りに体験者は居らず、中学生の頃に読んだ、早乙女勝元の「東京大空襲」で初めて詳しく知った。

この空襲は日本人の戦意喪失を狙ったものだったから、攻撃目標は軍事施設や政府建物ではなく一般民家。下町の木造住宅地帯の周囲を火の海にして逃げ場をなくしてから中の地帯を壊滅させる作戦、日本側の反撃はほとんど無い中の300機以上の大型爆撃機B29の低空爆撃。深夜の数時間の一方的な攻撃で20万人以上の死傷者、100万人以上の被災者。火のまわりが速くなるように風が強い日を選んで行われ、レーダーの撹乱も前もって行われて空襲警報の発令も遅れた。 歴史上最も残虐なジェノサイドだと思うのだが...どんどん忘れられていくのだろうか。

この慰霊堂には関東大震災と空襲で亡くなった身元の分からない遺骨が16万体以上納められているのだが、現在も遺骨は毎年200体くらいづつ増えているという。




「東京大空襲」から70年 どんな空襲だったのか
http://thepage.jp/detail/20150309-00000004-wordleaf
旧聞に属する話だが、世界で踊るマット・ハーディングの2008年版の動画のBGMは バングラデシュ女性が ベンガル語で歌っていて、その歌詞はなんと タゴールの詩だという。さらにこのmattさんの動画の為に作曲されたものだと言う。すごく高尚なものに思えてきた。 目的を持って旅をするのって良い。

動画の最後のテロップに書いてあった歌のタイトル [Stream of Life]をググってみたら、wikipediaの記事が出た(英語とオランダ語とポルトガル語でしかwikipediaに記事は無いけど)。 バングラデシュのPalbasha Siddique って人らしい。
一人の旅人が世界的に有名になり、その彼がまた別の無名なバングラデシュ女性の歌を世界中に知らしめたわけで、すごいことだ。
連休前の夜行バス乗り場は人で溢れている。
キャンセル待ちするのも面倒だし.思い付き帰省は断念して家に帰ることに。連休は東京に居ろということだろう。郊外への終電は終わったと思うが、八重洲には仮装した人がたくさん。

新聞をいつの間にか読まなくなった。ネットだけだと情報偏ってるのが分かるのだが。
昔、新聞会社の本社では、印刷ミスや送り仮名ミスを最初に見つけた人は一万円もらえるからと、刷り上がったばかりの新聞をたくさんの人がみていた。
竹橋の毎日新聞本社前をたまたま通りがかって思った。
自分は幼少の頃あまり外に出ないで、小学校高学年まで積み木で遊ぶような子供だった。親は恐らくそれを良しとは思っていなかったと思え、いつの日かそのようなおもちゃをすべて捨ててしまった。(かと言って普段は強く禁止するほどでもなかったのだが)。

でももしそのまま突っ走っていれば大学生になる頃はこんな事をやっていたのだろうか。もちろん"好き"だけじゃだめなのだけど、好きと思わせることが重要で、それが大きくなってからは一番難しいところだと思う。 ...知人の子供とある日一緒に遊んでいて思ったこと。