2006年3月アーカイブ
炊飯器を新しく買った。
今まで使ってきたのは、大学入学時に買ったものだから12年使用している。一人暮らしをはじめたばかりで刺激が強かったのか購入した日の事まで覚えている。1994年3月28日十三のマツヤデンキ。
まだまだ故障はせずに動くのだが、やんごとなき事情(中を見たくないので詳しく書けない)のため、買い換えることと相成った。
5合半炊き。昔は一人暮らしなのに毎日5合炊いていた。今では考えられない信じられない食欲だった。
でも今の方が体が太っているのはどうしてだろうか。
はまな氏を加え、昼食。予定外のしゃぶしゃぶ。
食べ過ぎて苦しいが、梅の咲く箕郷梅林へドライブ。
manbが東京に実習で来ていたそうで、群馬へ普通列車で一緒に移動。
期限間近の券が有ったのでロイヤルホスト。
この二人がファミレスに行くなんて普通は有り得ないのだが。
夜、前橋の家に泊めてもらう。この家に来ると、足に根っこが生えて動けなくなる。
シマノフスク(Шимановск)はアムール州西部、シベリアの入口というべき町で人口2万人程度。産業は...なんだろう。鉄道の駅が最も就業人数が多いと思われる。要するにシベリアへの鉄道輸送物資の集坦地、めぼしい物は何も無い小さな町だ。 ただ、ここより先は1300km先のチタ(Чита)までまともな町は無い。重要な町なのだ。
来年の夏の有る計画(未定/僕は参加しないのだが)の計画、下見の為にこの町へ赴いた。立ち消えになった「世界で一番寒い所へ行こう」企画の為に取得したロシアビザがもったいないからというのも理由の一つ(ビザの有効期限は3月25日だった)。
1年半ぶりに行く町で、僕のことを覚えててくれているのか楽しみでは有ったが、治安状況が分からない、情報が全く無いところへ行く不安も大きかった。
そんな所へ行く日本人も居ないし、ガイドブックは無い。3月はシベリアではまだ「冬」だろうし、日照時間も短い。そもそも自由に行動できるのだろうか、心配事は尽きない。
ただ、僕は行ったことが有る。宿泊施設が少なくとも1件有る事を知っている(冬季閉鎖されてるかもしれないが)。
それだけの自信で旅に出た。今回はもちろん車ではなく、航空機と鉄道でだが。
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で、結果だが、たどり着くことは出来た。計画していたよりも安く。
シマノフスクの人たちも覚えていたし、この珍しい訪問者をみんな歓迎してくれた。
中ソ国境、それも満州里などの幹線ではない箇所を、鉄道ではなく陸路で越境した外国人は少ないはずで貴重な体験が出来たと思う。シベリア鉄道のローカル列車に乗れたのも良かった。
ロシアへの観光ビザを取得するには、ロシア内でのホテル、交通手段をすべて予め予約し代金を支払わなければならない。今回のような経路の乗車券を日本で購入することは出来ないし、大都市でもないシベリアの小さな町の宿を日本から予約することは不可能だ。つまり、正攻法では無理なのだ。ロシア連邦政府にコネをつくり、大金を使えば別だが。黒河にはロシア領事館は無い。北京に大使館は有るがビザを取得するには日数が必要なので予め日本で取得しておいた方が良い。
週末を利用した短い期間(5日)の割には、濃い時間をすごせた。中国東北部へいくのも初めて。この地域はまだまだ見てみたい箇所が多いので、また近いうちに行くことが有るだろう。
満州建国前からハルピンは国際都市として栄えていた。日露戦争前からロシア人は何万人と住んでいたし、日本企業進出前から欧米の企業が数多く進出していた。
実際にこの目で見て実感できる。日露戦争、満州事変から第二次世界大戦、国共内戦と戦争は続いたが、市街地で激しい戦闘が行われなかったことも有り当時の西洋建築が数多く残っている。状態も良く、これだけまとまった数が残っている所は少ない。保存されるのでなく、現在も使用されているからだろうか。
帰りの飛行機までの数時間の間、旧市街地を荷物を背負いながら散策したら、面白い建物を見つけることが出来た。
(左)建物の外観。
(右)門の上に有る独特のマークは!ダビデの星。
黒龍江省と接するロシア領内に「ユダヤ人自治区」が有る。イスラエル建国よりも前から有るユダヤ人の為の土地だ。実際はスターリン時代のシベリア流刑と変わらないのだが。ロシア帝国崩壊後、多くの白系ロシア人、ユダヤ人がここを経由し、資本主義者に対して中立(一応)の満州国にやってきたのだ。これとは関係ないが、杉原千畝の助けたユダヤ人も、リトアニアからソ連領内を経由しここへやってきている。
白系ロシア人の活動の中心となったのがここハルピン。その資産は莫大でニューヨークやロンドンの商社もハルピンに活動拠点を置いた。満州国成立以降はさすがに連合国の企業は減るのだが、行き場の無い白系ロシア人&ユダヤ人は勢力を残し、ポリシェビキ(共産主義者など)への反発も有り、日本帝国政府などとも結びつきを強めた。その在住ユダヤ人の子弟のための学校が、この写真の建物なのだ!
現在は朝鮮系中学校&韓国語学校。
入口に有る看板を見てまた驚く。ユダヤ人学校が現在は「朝鮮第二中学」と「韓国語学校」として使用されているのだ。なんて奥の深い...。ここに通っている中学生(朝鮮系中国人?)はダビデの星の意味を分かっているのだろうか。今はどこに行ったのか分からない、この学校の卒業生の数奇な運命をもっと知りたいと思った。
(左右)旧市街地の様子。ロシア正教の教会なんか、よく残っていたものだと感心する。東ヨーロッパに来たみたい。看板が中国語で、町行く人の服装を見たらまぁ中国なのは隠しようがないんだけど。
昼食に中華料理屋に入った。
この店の売りは北京ダックのようで一羽60元。
その他にもアヒルのメニューがあり、手ごろな価格だが、北京ダックはこの前食べたばかり。狗肉(犬肉)なんてのが有ったので注文する。
狗肉石鍋 15元
冷麺 3元
水餃 5元
哈尓濱ビール(ビン) 6元
オーダーする際に僕が中国語を話さないのことに気付かれる。
朝鮮人かと聞かれ日本人だと答えると、店員がわなわな集まってきた。
目立ちたくなかったのだが...こうなったら仕方ない。
写真などを撮って話題を集めてみた。
僕の注文した料理は韓国人が食べるものだそうだ。
そう言われてみればそうだ。
ところで店員は「朝鮮人」と言わずに「韓国人(ハングーレン)」と言った。
こんな所にまで韓国人は進出しているのだろうか。
(吉林省には朝鮮系の住民は多いが、黒河はそうでもない)
犬の肉は初めて食べた。もつ鍋のようだ。
この時点で客は自分のほかに2組。
ロシア人男2人組と、中国人3人組。ロシア人のテーブルには料理がたくさん並んでいる。不思議そうに僕を見たので、自分は日本人だと話すとタバコを勧めてきた。料理も勧められたが、もう腹一杯と僕のテーブルを指差すとロシア人も笑っていた。向こうも料理の分量が分らず大量に注文してしまったらしい。
テーブルの上には家鴨も一羽居た。ありがたく一口だけ頂く。
中国で何を買うのかと尋ねたのだが、この二人は親子で、買出しではなく観光できたらしい。
「指差しロシア語会話」がまた役立つ。英語も多少話すので何の仕事をしているのか尋ねたら何と、父親はヘリコプターの操縦士、子供(28歳)の方は建築士(ビルのエンジニアと言った)。それも1990年まで、シベリアのほぼ東端、アラスカにも近いアナディールという町に住んでいたと言う。ヘリコプターは軍隊ではなく、民間のものだと言う。エリートなんだろうか。珍しい人と知り合えた。
この2人も特にする事が無いようで、1時間以上話をした。
ウォッカ狂いで無かったので良かった。
(今までの経験では、食事中に仲良くなって、酒を勧めあうと最後は滅茶苦茶になる可能性が高い)
この店にも居る“いらっしゃいませガール”含む従業員達と写真を撮ろうとしたが、恥ずかしがって写りたがらない。嬉しそうにはしてるんだが。
筆談をしていたテーブル担当だけ写真を撮った。
シマノフスカヤ駅に到着したのは23時を過ぎていた。前回に来た時は車で来たのだが、今回は駅を出てからの交通手段が無い可能性が強いので心配だった。
ホテルまでの道は、2年前に車で駆け抜けただけなのでうろ覚え。地図も無い。
深夜で真っ暗、シベリアの片田舎、マフィアとまでいかなくても強盗でもいたらどう
しようかと不安は尽きない。
シマノフスカヤで列車を降りたのは10人くらいだった。駅のホームは小さな外灯が点いているだけだったが、何も見えず手探りというわけではなかった。一応、シベリア本線の駅だ...。でも駅の規模を例えると、千葉県だと東千葉駅、滋賀県だと安土駅といった感じか(筆者は滋賀県出身で千葉在住)。決して大きい駅ではない。
一緒に降りた人の後をつけて駅舎の外に出ると、列車の客を迎えに来たのであろう乗用車が数台止まっていた。みな次々と車に乗り込んで行く。ここで取り残されると恐らく路頭に迷うことになる。凍死しかねない。
意を決してその中の一台に声をかけると、運転手は「分かった、分かった、早く乗れ」と言う。運転手の他には助手席にもう一人男。ちょっと怖い...
車は僕の覚えていた道とは違う道を進んで行き、1kmほど走ってその男を下ろした。男は50ルーブルを払っている。
もしや?と淡い期待の通り、この車はタクシーだったのだ。そこからホテルまではすぐだった。同じように50ルーブルを渡すと男は言った。「スパシーバ」。あまりにもスムーズに事が運んだことに喜んだ。
ホテルのドアは閉まっていたのだが、木の扉を開け呼び鈴を鳴らすと、中から閂を外してくれた。女の人が出て来る。泊まりたい旨を伝えると、フロントで宿帳を出してきた。宿帳に書く前に部屋を見せて、この部屋でも良いか尋ねられる。前回と同じ部屋だ。
ソファーだけしかない、トイレは共同の6畳くらいのシングルルーム。
900ルーブル(値段も変わっていない。相変わらず高いのだが、フロントに料金は掲示されている)。
(写真)ホテル外観/翌朝に撮影
名前を書いたところで、前回の写真をみせた。なぜこの写真を持っているのか聞かれる。話を聞きつけ中から出てきた人が「おぉー」と声を上げる。この人の顔は僕も覚えていた。
次々と人が出てくる。去年の宿帳からオバサンが僕の記録を探している。
握手を求められる。僕が写真を出すたびにみんな喜んでいろいろ聞いてくる。
人に囲まれ、次々と話しかけられながら、紅茶と牛肉炒めという不思議な夜食(こんなので180ルーブル。高い)を食べる。持ってきた焼酎を勧めると、ウォッカが出てきて、いつの間にかいつもの光景が...
今回はロシア語の会話集が有る。前回のような緊張感は無く、心地良い時間が過ごせた。
眠ったのは夜2時ごろ。途中、警官の見回りも来た。
今回有ることに気付いた。アルコールは勧めると男は飲むのだが、最初の一杯まではわりと遠慮している。ウォッカを一杯口にすると、そこからは早いのだが...
ソ連崩壊後、飲酒により死亡率が大幅に上がったこともあって、「飲酒は悪」という意識が浸透しているようだ。
女の人は全く飲もうとしない。男達が酒を飲み始めると女の人達は帰りだした。
禁酒の傾向が有るのは喜ばしいことでは有るのだが、ロシア人のイメージが変わってしまうことを意味するので少し寂しい。
日本人の禁煙傾向と同じ様な感じ。まわりでも同年代ではタバコを吸う人はほとんど居ないなあ。僕はタバコを吸わないし、酒も無くても苦ではないのだが。
部屋の中は暖かい。安心して眠れた。
ブラゴベチェンスク〜シマノフスク178ルーブル。日本円で1000円弱。
国境の建物(こういう場合、この建物のことを何と呼んだら良いのであろうか)へもう一度入り、KACCA(英語のCashierか?)と書かれている窓口が有ったので、人民元の札を見せて「ルーブリャ!」と言ってみた。
中国側の国境の建物は高校の体育館って感じ。
出国審査は少し時間かかる。
近くに居た公安(茶色の制服)が走ってくる。
こんな無意味な通訳(?)を付ける必要は無いのだが、親切にしてくれるのでこっちも笑顔で応える。
イミグレの職員は不機嫌そうにパスポートを返した。
中国を出国し建物を出ると、そこには大きな河「松花江(アムール川)」が有る。
まだ完全に凍っていて真っ白だ。
この氷の上をバスで移動する。
バスは北朝鮮のバス(ハングルの行き先表示がそのまま)や、古いロシア製のボンネットバスだ。
「ブラゴベシェンスク!?」と大声で聞いたら、バスの運転手が「ダ−!ダ−!」と答える。
バスの中では僕は思いっきり目立っていた。
飛行機から歩いて空港ビル(3階建てくらいの建物)まで、滑走路の端を歩く。
黒河の空港から市街地までは車で20分くらいだろうか。バスは無い。
荷物を受け取り所にはタクシーの運転手の客引きが10人くらい居る。立入禁止区域も何も有った物ではない。みんな獲物を捕まえようと必死だ。
ただこちらとしても、このタクシーを逃すと交通手段が無くなってしまうので誰かを選ばなければならない。最初は50元と言っていたが、すぐに20元に落ち着く。距離からして妥当な金額だと思う。
空港の周りは何も無い。本当に何も無い。
荒野だ。色で言うと、茶色と白色がまだらになっている。
凍っているのだが雪は無い。大陸性気候で冬の間の降雨量はほとんど無いのだろう。
街の様子は...中国の田舎町と言った感じ。10階建てくらいの大きな建物も有り、 中心となる通りのクロスしているあたり数百m四方はビルが並んでいる。
建物では目立つのは賓館(ホテル)と商城(小売店が入居するデパートのような物)だ。
看板にはほとんど中国語と並んでロシア語で書かれている。
この街を素通りしてタクシーに乗ったまま、国境のゲートに向かった。
翌朝の便でハルピンをでてしまうのでハルピン滞在時間は数時間しかない。
帝政ロシア時代の建物が立ち並ぶキタイスカヤ(中央大街=китаиская=ロシア語で「中国人の街」の意)を散策。この通りに限らずハルピンには歴史の有る建物が多い。そのほとんどは西洋風建築だ。
夜8時で人通りもそんなに多くない。もう閉まっている店も多い。
ロシア料理のレストラン「華梅西餐庁」で食事。
開業1925年という老舗だそうだ。
ただ、味は期待してタクシーで行った割には...
中国人の味覚にあわせられているのかもしれない。
中国の高級レストランにはどこでも居る「いらっしゃいませガール」が僕が持つガイドブックを気になったらしく、筆談で応じる。明日ロシアに行くということを伝える。
この店には日本人は一日あたり3〜4人は来るとの事。
僕には多いのか少ないのか分からない。
店は3階建てで石造り、重厚な感じ。
通りの向かいにはハルピンの中でも由緒有るホテル「モデルンホテル」。「MODERN HOTEL」だがモダンホテルではない。(写真)
*「いらっしゃいませガール」;
店の入口に立ち、客が通ると「歓迎光臨(いらっしゃいませ)」と言う女の子。
注文を取ったり料理を運ぶウエイトレスではない。
挨拶をするのだけが仕事。大きい店には数人が立ち並んでいることも多い。
給料は一体いくらなんだろうか...
人気の職業というわけではないらしい。(天津在住/T大王談)
ハルピンでは駅前に有る龍門賓館に宿泊。
ここは1945年まで(満州国時代は)満州鉄道(満鉄)直営の「ヤマトホテル」だった。
ヤマトホテルは日本の傀儡国家、満州国のコロニアルホテル。
大連、新京(長春)、奉天、ハルピンに有った。
日本人の支配者層、外国人が主に滞在したホテルだ。
龍門賓館の貴賓楼の部分は当時のままの建物で、
そこに出来れば泊まりたかったのだが前知識が無く、
「一番安い部屋で良い」と言ってしまったばかりに新館の部屋になった。
定価580元を390元で。180元のトイレ無部屋も有るが中国人民用とのこと。
13階の客室からはハルピン駅の構内が見下ろせて見晴らしは良かった
(このハルピン駅では18年、伊藤博文が暗殺されている)。
ホテルのサービスはまぁ良い。高級感というほどではないのだが。
フロントですら僕程度の英語力(=最低限)しかないのだが、親切だ。
黒河への航空券を頼んだらちゃんと買っておいてくれた(手数料無料、結局チップも払わず)。
貴賓楼の部分は“さすが”だ。
もともとこのホテルは満鉄が建てたのではなく、帝政ロシア時代に建てられたもの。 列強が清を事実上の植民地にしていた時代、威勢を示すために建てただけあって立派だ。
年号がはめられた入口。ドアマンに、木の回転ドアを押してもらい中に入る。
フロントの前のロビー。
暖炉(今は使われていない)の前のソファーに座ってみる。
絨毯の引かれた廊下、すりへった手すりの階段、大きなシャンデリアの食堂(何室か有る)。
問題は現在の中国人の美意識がちょっと...ということだが。変な装飾や看板をわざわざ付け足したりしている。
古いというだけでない。
政治家、財閥、軍人など著名人が泊まったことというのも歴史好きには堪らないのだが、ここハルピンのヤマトホテルならではの事件が有っただろうことに思いを馳せると楽しい。
ハルピンは満州の北部、外国人が多く住んでいた都市。
日本と国民党、ロシア、アメリカなどの列強諸国、それぞれの勢力の間を彷徨う軍閥との地下交渉が行われた町だ。
秘密の保てる、日本の国家権力に守られたこのホテルで、記録には残っていない様々な事件、交渉が起こったであろうことは容易に推測される。
ハルピンにも現在は外資系のホテルが進出している。
そっちの方がここよりもずっと高級で、実際サービスも洗練されているのだが、
せっかくハルピンに来たのだったら、最初の夜にはこの龍門賓館がおすすめ。
中国ロシア国境の町、黒河までは飛行機と列車を乗り継いでいくと
うまくいけば出発の翌朝に到着できる。
こんな奥地にもたった1泊で行く事が可能なのだ。
当初の予定経路
3/17 成田−北京 JL
3/17 北京−ハルピン CA
3/17 ハルピン(夕方)−黒河(翌朝) 夜行列車
実際の経路
3/17 成田(09:30)−大連(11:30) JL797
3/17 大連(15:40)−ハルピン(18:30) CZ3603
3/18 ハルピン(11:35)−黒河(12:40) SC4897
【成田〜大連】 (日本航空797便)
大連行の便が早く出ると言うので、成田空港で航空券の変更をする。
こういうときに特典航空券は便利だ。
手数料3050円(発券時と為替変動の為税額が変更)。
大連の視界が悪く、途中で引き返す可能性有とアナウンス有ったが、気にしないことにする。
成田に戻ってくることになっても話のネタにしよう...
(大連周水子空港は、海に近いことも有り霧が出やすいので有名)
時刻どおりのいたって普通のフライトだった。
【大連〜ハルピン】(中国南方航空3603便)
大連空港到着後90分の乗継時間。ハルピン行きの中国南方航空の便が有ったので、大連空港にてチケットを購入。
何も言わなくても30%割引/Y70(定価840元を580元)で航空券を発券してくれた。
だが、出発時刻が13:10発が15:00に変更になるとのこと。
ハルピン発黒河行の夜行列車に間に合うぎりぎりの時刻だ。
空港ですることもなく3時間...
しかし出発時刻15時になってもエプロンに飛行機は見当たらない。
英語のアナウンスは有るのだが「15時に変更になりました」とだけ。
実際に飛行機が飛び立ったのは15時40分だった...
機内放送で、この飛行機は広州発大連経由ハルピン行で、広州の出発が遅れたと伝えられる。
なぜ広州の出発が遅れたかというのは伝えられないのだが...
ハルピン空港を出たのは18時半。
夜行列車は間に合わないのでとりあえず市内行のバスに乗った。
空港からは市街地は50kmも離れている。バスで50分。20元。
【ハルピン〜黒河】(山東航空4897便)
航空券はホテルのビジネスセンターで発券。580元。
ハルピン空港までタクシー。99元。100元で釣りは受け取らなかったら喜ばれた。
チップの習慣の無い国だが、1元でここまで大げさに喜ばなくても。。
ゲートから飛行機までバスで移動。
70人乗りぐらいの中型機。搭乗客の半分は白人。たぶん全員ロシア人。
時刻どおりのフライト。飛び立ってすぐに雲に包まれるが、
30分くらいで視界が晴れる。いつの間にか地上は真っ白の山岳地帯だった。
黒河空港は一日一便、この便だけが発着する小さな空港。
タラップから降りて荷物引取りのカウンターまで、てくてく歩く。
乗客の預かり荷物を積んだ軽トラが、横をゆっくり走っていた。
記憶が薄れる前に記録を残さなくてはいけないのだが...
で、いきなりだけど、気付いた点を何個か、時間が出来た時に書いてみようかと思う。
「踏切は一旦停止」
鉄道の幹線と交差する箇所の踏切には踏切係(踏切番)が居る。
踏切係は列車が来る度に遮断機を下げ、列車が行った後に遮断機を上げる。
線路内に人が立ち入らないように監視するのが仕事だ。
日本ではいつの頃からかあまり見られなくなった光景だ。
ロシアではシベリア鉄道に沿った道を走った。沿った道と言っても広大なシベリア、 ほとんどの箇所で線路と道との間は何十kmも離れている。
都市部の路面電車を除くと、2ヶ月の旅で鉄道の踏切を越えたのは数回だけだ。
その踏切で気付いたこと。車が一旦停止しないことだ。
見渡しの良いところで列車が来ていないのだったら、わざわざ一旦停止したくない気持ちは理解できる。
でも、普通の日本人だったらそんな所でも一旦停止すると思う。
運転免許教習の時に叩き込まれているし、現に日本では法律で「踏切での一旦停止」は義務付けられているのだから。
なので、ロシア人が全然止まらずに突っ切るのを見た時は新鮮だった。
そして旅を続けて気付く。ロシア以外でも、西側諸国に入ってもそうなのだ。
もちろんどの国でも、鉄道が走っている時は線路内に入らない(当たり前だ)。
ただ列車が来ないときは踏切番や警官の前でも、全然気にしない。一旦停止しない。
旅の初めの頃にロシア人警官グループと一緒に走っていた時、休憩時にこの事を聞いてみた。
「なぜ止まるんだ?」逆に聞かれた。ロシア人の率直な感想だった。
後日、ドイツの宿で英語を話すおじさんと話した時は、分かりやすく説明された。
「遮断機が付いている踏切では遮断機が下りていない限り、止まる必要は無い」というドイツ人。
「もしかしたら列車が来るかもしれないのでは?遮断機が壊れている可能性もある」という僕。
ドイツ人は僕の言った内容を理解して言った。
「もちろん可能性は有る。じゃあ日本人は交差点で青信号の時も一旦停止してるのか?(信号が壊れてるかも、信号無視の車が来るかもと言って、青信号でも止まる車はいないだろう?)」
この人に限らず、たぶんそういう考えが一般的なのだろう。
“遮断機が上がっている=列車は来ていない=止まる必要は無い”
もちろん列車が来たら線路内には入らない。
遮断機が無く、見渡しの悪い踏切では一旦停止する。死にたくないのだから。
でも明らかに列車が来ていない(視界が良く確認できる)のならば、一旦停止する必要は無い。
そもそもそんなことをなぜ法律で定めなきゃならないのか...と。
日本人は列車が来ていないときでも一旦停止する。これは
“法律が有るから(≒警官に見つかると罰金を取られるから)”
という理由から来ているのだろう。又は“みんながそうしているから”だろうか。
欧米人の合理的な考え方、“止まる必要が無い時は止まらない”。
今回調べてみたら「踏切では一旦停止」を法文化しているのは、主な国では韓国と日本だけだった。
「列車が来ないときでも踏切では一旦停止」、これは非常識とまで行かなくても世界では少数意見なのだ。見晴らしの良い踏切で一旦停止したら、たぶんどの国でもクラクションを鳴らされる。後続車に追突される可能性の方が、遮断機が壊れている可能性よりも高いというのが、ほぼ世界中の共通認識なのだった...
山頂で昼寝。恐らくB型の集まりであろう、マイペースのメンバーで計画を立てずにゆる〜い一日。
(昨晩いきなり話がまとまり、この日空いていたメンバーが来た。んだよね?)
温泉の後、タクシーの運転手に聞いた店「魚繁」へ魚を食べに行く。
恐らくこの料理を食べる為に一日歩いたのであろう、興奮を抑えながら、どれも美味しくいただく。
後ろの席で食事をしていた40代教員グループの会話がBGM。
どこが面白いと言われても説明できないのだが。女性陣の批評が厳しい。
夜は2日間の疲れで落ちるように眠る。
もし日光街道歩いてたら栗橋くらいまでは辿り着いてたかな?
地下鉄日本橋駅出発20時5分、途中でヨドバシカメラ(千葉)で買った万歩計を設定し、スタート。
どちらの都市も訪れるのは10年ぶりだ
(前回は96年の8月)。
上海や深センほどではないが街は変わっていた。建物よりも中国“人民”が前回と全然違う。
街がきれいなのだ。
そうじをする人が居るのではなく、汚す人が居ない。
公衆トイレがあちこちに有る(特に北京)。しかも無料。
「没有〜(メイヨ〜)」を聞くことも無い。
「対不知」を使う人を見た!
買い物やタクシーに乗ると誰もが「謝々」と言うではないか!
ボラれているわけではない(え?気付いてないだけ?)
帰りの飛行機の時刻まで余裕が有ったので、ホテルで自転車を借りて北京の胡同をサイクリング。
写真1/鼓楼





