2006年3月アーカイブ

この1ヶ月、旅行ばかり遊んで過ごしたわりには、クレジットカードのポイントで
貯めたマイレージのおかげでたいしてお金は使っていない。
 
ひきこもり(最近は「外こもり」と言うのが定着してきた)気味だ。
これから忙しくなりそうだが。
 
 
北京・天津 (3/34567 )、
日光?ハイク(3/10)、
湯河原散策(3/11)、
ハルピン(3/17)、〜黒河〜ブラゴベチェンスク〜シマノフスク(3/18)、
〜ブラゴベ(3/19)、黒河(3/20)〜ハルピン(3/21)
群馬(3/2425)、長岡(3/26)
 
 

炊飯器を新しく買った。

今まで使ってきたのは、大学入学時に買ったものだから12年使用している。一人暮らしをはじめたばかりで刺激が強かったのか購入した日の事まで覚えている。1994年3月28日十三のマツヤデンキ。

まだまだ故障はせずに動くのだが、やんごとなき事情(中を見たくないので詳しく書けない)のため、買い換えることと相成った。

5合半炊き。昔は一人暮らしなのに毎日5合炊いていた。今では考えられない信じられない食欲だった。

でも今の方が体が太っているのはどうしてだろうか。

はまな氏を加え、昼食。予定外のしゃぶしゃぶ。
食べ過ぎて苦しいが、梅の咲く箕郷梅林へドライブ。

明るい陽射しの芝生の公園で商談を済ませ、高崎駅まで送ってもらう。

 
夕方、新潟県の長岡へ新幹線で移動。
山には雪が残っていたが、市街地は見かけない。
居酒屋で、“夏のプロジェクト”の打ち合わせ。
いつものコンサルと、イギリス車販売の会社社長を加え少し具体的なところまで話が進む。
主催者は乗り気のようだが、参加者が集まるのか微妙に不安ではあるが、突き進んで良いのだろうか。
遅くまでスナックで飲み、うどんを食べて寝る。長岡は思ってたよりも栄えていた。

manbが東京に実習で来ていたそうで、群馬へ普通列車で一緒に移動。

期限間近の券が有ったのでロイヤルホスト。
この二人がファミレスに行くなんて普通は有り得ないのだが。

夜、前橋の家に泊めてもらう。この家に来ると、足に根っこが生えて動けなくなる。

200603map車でのユーラシア横断の際に立ち寄ったロシアのシマノフスクへ、この週末行った。

シマノフスク(Шимановск)はアムール州西部、シベリアの入口というべき町で人口2万人程度。産業は...なんだろう。鉄道の駅が最も就業人数が多いと思われる。要するにシベリアへの鉄道輸送物資の集坦地、めぼしい物は何も無い小さな町だ。 ただ、ここより先は1300km先のチタ(Чита)までまともな町は無い。重要な町なのだ。

来年の夏の有る計画(未定/僕は参加しないのだが)の計画、下見の為にこの町へ赴いた。立ち消えになった「世界で一番寒い所へ行こう」企画の為に取得したロシアビザがもったいないからというのも理由の一つ(ビザの有効期限は3月25日だった)。

1年半ぶりに行く町で、僕のことを覚えててくれているのか楽しみでは有ったが、治安状況が分からない、情報が全く無いところへ行く不安も大きかった。
そんな所へ行く日本人も居ないし、ガイドブックは無い。3月はシベリアではまだ「冬」だろうし、日照時間も短い。そもそも自由に行動できるのだろうか、心配事は尽きない。
ただ、僕は行ったことが有る。宿泊施設が少なくとも1件有る事を知っている(冬季閉鎖されてるかもしれないが)。

それだけの自信で旅に出た。今回はもちろん車ではなく、航空機と鉄道でだが。

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で、結果だが、たどり着くことは出来た。計画していたよりも安く。
シマノフスクの人たちも覚えていたし、この珍しい訪問者をみんな歓迎してくれた。

中ソ国境、それも満州里などの幹線ではない箇所を、鉄道ではなく陸路で越境した外国人は少ないはずで貴重な体験が出来たと思う。シベリア鉄道のローカル列車に乗れたのも良かった。


ロシアへの観光ビザを取得するには、ロシア内でのホテル、交通手段をすべて予め予約し代金を支払わなければならない。今回のような経路の乗車券を日本で購入することは出来ないし、大都市でもないシベリアの小さな町の宿を日本から予約することは不可能だ。つまり、正攻法では無理なのだ。ロシア連邦政府にコネをつくり、大金を使えば別だが。黒河にはロシア領事館は無い。北京に大使館は有るがビザを取得するには日数が必要なので予め日本で取得しておいた方が良い。

週末を利用した短い期間(5日)の割には、濃い時間をすごせた。中国東北部へいくのも初めて。この地域はまだまだ見てみたい箇所が多いので、また近いうちに行くことが有るだろう。

満州建国前からハルピンは国際都市として栄えていた。日露戦争前からロシア人は何万人と住んでいたし、日本企業進出前から欧米の企業が数多く進出していた。

実際にこの目で見て実感できる。日露戦争、満州事変から第二次世界大戦、国共内戦と戦争は続いたが、市街地で激しい戦闘が行われなかったことも有り当時の西洋建築が数多く残っている。状態も良く、これだけまとまった数が残っている所は少ない。保存されるのでなく、現在も使用されているからだろうか。

帰りの飛行機までの数時間の間、旧市街地を荷物を背負いながら散策したら、面白い建物を見つけることが出来た。


 

(左)建物の外観。 
(右)門の上に有る独特のマークは!ダビデの星。

黒龍江省と接するロシア領内に「ユダヤ人自治区」が有る。イスラエル建国よりも前から有るユダヤ人の為の土地だ。実際はスターリン時代のシベリア流刑と変わらないのだが。ロシア帝国崩壊後、多くの白系ロシア人、ユダヤ人がここを経由し、資本主義者に対して中立(一応)の満州国にやってきたのだ。これとは関係ないが、杉原千畝の助けたユダヤ人も、リトアニアからソ連領内を経由しここへやってきている。

白系ロシア人の活動の中心となったのがここハルピン。その資産は莫大でニューヨークやロンドンの商社もハルピンに活動拠点を置いた。満州国成立以降はさすがに連合国の企業は減るのだが、行き場の無い白系ロシア人&ユダヤ人は勢力を残し、ポリシェビキ(共産主義者など)への反発も有り、日本帝国政府などとも結びつきを強めた。その在住ユダヤ人の子弟のための学校が、この写真の建物なのだ!

現在は朝鮮系中学校&韓国語学校。

入口に有る看板を見てまた驚く。ユダヤ人学校が現在は「朝鮮第二中学」と「韓国語学校」として使用されているのだ。なんて奥の深い...。ここに通っている中学生(朝鮮系中国人?)はダビデの星の意味を分かっているのだろうか。今はどこに行ったのか分からない、この学校の卒業生の数奇な運命をもっと知りたいと思った。


 
 
(左右)旧市街地の様子。ロシア正教の教会なんか、よく残っていたものだと感心する。東ヨーロッパに来たみたい。看板が中国語で、町行く人の服装を見たらまぁ中国なのは隠しようがないんだけど。


黒河19:30発の快客でハルピンへ向かう。快客は日本で言う急行列車か。3段式ベットの中段。600km(東京〜神戸くらい)で148元だから2000円くらい。値上げが続く中国の鉄道だが、日本と比べるとまだまだ安い。


 
(左)始発の黒河駅。この写真では寂しく感じるが、出発前は人が多い。(右)列車の行先表示。


車内はほぼすべての寝台が埋まっている。下の段には一人旅おばあさんが二人。おばあさんにみかんを勧めるが笑って受け取らない。僕がまさか日本人とは思わなかったようでニコニコしている。次の駅から僕の向かいに30代くらいの男性。

車内は割りと静かで、21時過ぎには眠りについた。


昼食に中華料理屋に入った。
この店の売りは北京ダックのようで一羽60元。
その他にもアヒルのメニューがあり、手ごろな価格だが、北京ダックはこの前食べたばかり。狗肉(犬肉)なんてのが有ったので注文する。

狗肉石鍋 15元
冷麺 3元
水餃 5元
哈尓濱ビール(ビン) 6元

オーダーする際に僕が中国語を話さないのことに気付かれる。
朝鮮人かと聞かれ日本人だと答えると、店員がわなわな集まってきた。
目立ちたくなかったのだが...こうなったら仕方ない。
写真などを撮って話題を集めてみた。
僕の注文した料理は韓国人が食べるものだそうだ。
そう言われてみればそうだ。
ところで店員は「朝鮮人」と言わずに「韓国人(ハングーレン)」と言った。
こんな所にまで韓国人は進出しているのだろうか。
(吉林省には朝鮮系の住民は多いが、黒河はそうでもない)

犬の肉は初めて食べた。もつ鍋のようだ。



この時点で客は自分のほかに2組。
ロシア人男2人組と、中国人3人組。ロシア人のテーブルには料理がたくさん並んでいる。不思議そうに僕を見たので、自分は日本人だと話すとタバコを勧めてきた。料理も勧められたが、もう腹一杯と僕のテーブルを指差すとロシア人も笑っていた。向こうも料理の分量が分らず大量に注文してしまったらしい。
テーブルの上には家鴨も一羽居た。ありがたく一口だけ頂く。

中国で何を買うのかと尋ねたのだが、この二人は親子で、買出しではなく観光できたらしい。
「指差しロシア語会話」がまた役立つ。英語も多少話すので何の仕事をしているのか尋ねたら何と、父親はヘリコプターの操縦士、子供(28歳)の方は建築士(ビルのエンジニアと言った)。それも1990年まで、シベリアのほぼ東端、アラスカにも近いアナディールという町に住んでいたと言う。ヘリコプターは軍隊ではなく、民間のものだと言う。エリートなんだろうか。珍しい人と知り合えた。


この2人も特にする事が無いようで、1時間以上話をした。
ウォッカ狂いで無かったので良かった。
(今までの経験では、食事中に仲良くなって、酒を勧めあうと最後は滅茶苦茶になる可能性が高い)


この店にも居る“いらっしゃいませガール”含む従業員達と写真を撮ろうとしたが、恥ずかしがって写りたがらない。嬉しそうにはしてるんだが。
筆談をしていたテーブル担当だけ写真を撮った。


 
左/炭火焼羊肉串屋。1本1元。
右/黒河の町並。「商城」が多い。



シマノフスクから


 
左/大祖国戦争(第二次世界大戦)の記念碑。どこの町にもある。
右/シベリアでよく見かける木造の家。この家は大きくて立派な方。


 
シマノフスク駅構内の引込線。駅の敷地はかなり広い。


 

左/駅舎はかわいい。
右/駅前。おばさんが自分の家でつくったものを売っている。


  
左/市内を走るバス
右/ホームに有った銅像。まさかスターリン?レーニンの若い時?
 
左/力強い電機機関車
右/客車はどうしてこんな色ばかりなんだろう。






 

シマノフスカヤ駅に到着したのは23時を過ぎていた。前回に来た時は車で来たのだが、今回は駅を出てからの交通手段が無い可能性が強いので心配だった。
ホテルまでの道は、2年前に車で駆け抜けただけなのでうろ覚え。地図も無い。
深夜で真っ暗、シベリアの片田舎、マフィアとまでいかなくても強盗でもいたらどう
しようかと不安は尽きない。

シマノフスカヤで列車を降りたのは10人くらいだった。駅のホームは小さな外灯が点いているだけだったが、何も見えず手探りというわけではなかった。一応、シベリア本線の駅だ...。でも駅の規模を例えると、千葉県だと東千葉駅、滋賀県だと安土駅といった感じか(筆者は滋賀県出身で千葉在住)。決して大きい駅ではない。

一緒に降りた人の後をつけて駅舎の外に出ると、列車の客を迎えに来たのであろう乗用車が数台止まっていた。みな次々と車に乗り込んで行く。ここで取り残されると恐らく路頭に迷うことになる。凍死しかねない。
意を決してその中の一台に声をかけると、運転手は「分かった、分かった、早く乗れ」と言う。運転手の他には助手席にもう一人男。ちょっと怖い...
車は僕の覚えていた道とは違う道を進んで行き、1kmほど走ってその男を下ろした。男は50ルーブルを払っている。
もしや?と淡い期待の通り、この車はタクシーだったのだ。そこからホテルまではすぐだった。同じように50ルーブルを渡すと男は言った。「スパシーバ」。あまりにもスムーズに事が運んだことに喜んだ。


ホテルのドアは閉まっていたのだが、木の扉を開け呼び鈴を鳴らすと、中から閂を外してくれた。女の人が出て来る。泊まりたい旨を伝えると、フロントで宿帳を出してきた。宿帳に書く前に部屋を見せて、この部屋でも良いか尋ねられる。前回と同じ部屋だ。
ソファーだけしかない、トイレは共同の6畳くらいのシングルルーム。
900ルーブル(値段も変わっていない。相変わらず高いのだが、フロントに料金は掲示されている)。

(写真)ホテル外観/翌朝に撮影

名前を書いたところで、前回の写真をみせた。なぜこの写真を持っているのか聞かれる。話を聞きつけ中から出てきた人が「おぉー」と声を上げる。この人の顔は僕も覚えていた。
次々と人が出てくる。去年の宿帳からオバサンが僕の記録を探している。
握手を求められる。僕が写真を出すたびにみんな喜んでいろいろ聞いてくる。

 
人に囲まれ、次々と話しかけられながら、紅茶と牛肉炒めという不思議な夜食(こんなので180ルーブル。高い)を食べる。持ってきた焼酎を勧めると、ウォッカが出てきて、いつの間にかいつもの光景が...
今回はロシア語の会話集が有る。前回のような緊張感は無く、心地良い時間が過ごせた。

 
眠ったのは夜2時ごろ。途中、警官の見回りも来た。
今回有ることに気付いた。アルコールは勧めると男は飲むのだが、最初の一杯まではわりと遠慮している。ウォッカを一杯口にすると、そこからは早いのだが...
ソ連崩壊後、飲酒により死亡率が大幅に上がったこともあって、「飲酒は悪」という意識が浸透しているようだ。
女の人は全く飲もうとしない。男達が酒を飲み始めると女の人達は帰りだした。
禁酒の傾向が有るのは喜ばしいことでは有るのだが、ロシア人のイメージが変わってしまうことを意味するので少し寂しい。
日本人の禁煙傾向と同じ様な感じ。まわりでも同年代ではタバコを吸う人はほとんど居ないなあ。僕はタバコを吸わないし、酒も無くても苦ではないのだが。


部屋の中は暖かい。安心して眠れた。



 左/可愛い駅舎。
ブラゴベチェンスク〜シマノフスク178ルーブル。日本円で1000円弱。
乗車距離、この国の物価から考えても安いのではないだろうか。

 
ブラゴベチェンスク18時3分発393号は定刻に出発。
シベリア鉄道の普通列車に乗車する外国人は珍しいだろう。普通は外国人は入国前に手配しなくてはならないのだが、こんな列車の切符は海外では入手困難というか情報が無いはずだから。

車両は中国の硬臥(日本のB寝台)といった感じ。一両に一つのドアで、一両ごとに一人車掌が居る。乗車する際に切符とパスポートのチェックを受ける。
 
始発駅なので出発のかなり前から列車は止まっていたようだ。出発の30分前頃にホームへ行き、列車の写真を撮ろうとぶらぶら歩いていたのだが警察に職務質問される。パスポート、ビザと切符を見せ、何点か聞かれる。
前回の旅行の際のようにワイロを要求したりする悪徳警官ではなかった。
 

写真)SLが展示してあった。日本より線路幅は広く、車体も大きい。
 
列車の中は暖かく、シャツだけになっても問題ない。
次の駅はどこといったアナウンスは全く無いのだが、車内放送でラジオのFMがかかっている。前回の旅行の時にもかかってた「アフターレイディオ」じゃないか!うれしい。
音量は調節できるのだが、周りから聞こえるのでどうしようもない。日本人は嫌がる人も居るかも。僕は気にならないのだが。
 
 
座席は指定されておらず。乗車率7割くらい。
ベットを下ろしたら3段ベットになるが、時間柄眠っている人は少ない。
珍しく話しかけられることも無く、6時間。景色を見たりメモをつけたりして過ごした。もしかしたら外国人だということが、車掌以外にはばれてないのかもしれない。
車掌には切符を預けてある。下車前には声をかけてくれる。
旧共産国にはよく有る、便利な制度だ。
 
急行ではないので、ワゴン販売などは無い。停車時間の長い駅でホームの物売りから買えということだろう。
ドアにはこの列車の時刻表が有ったので停車時間の長い駅は分かる。ドアに貼り付けてあるということはこの393(&復路の394)号以外には、この車両は使われないようだ。ベロゴルスクとスボボロヌイでそれぞれ40分程度も停車。外は真っ暗でホームには物売りは居ないようだった。
 
シマノフスクへは現地時刻で23時すぎに到着。
こんな所に深夜に到着は危険だと思っていたのだが、時間がないので仕方ない。
“入国”後、建物を出たらそこはロシア。当たり前だが。
でも普通、飛行機などで入国した場合とどこか様子が違う。
いきなり町のど真ん中に放り出されたというか...
 
ここは普通の住宅地。目の前に貨物の引込み線はあるが...
駅が有るわけではない。
 
とりあえずルーブル(ロシアの通貨)を全く持っていないので、両替しようと思ったが、銀行も両替所も無い。暇そうなロシア人(忙しそうにしている。何かを待っているようにも見える)は道端に座っているが、客引きは全く居ない。
東南アジアの国境を越えた時や、空港から外に出たところでは、タクシーやホテル、両替の客引きが居るものなんだが。
 

国境の建物(こういう場合、この建物のことを何と呼んだら良いのであろうか)へもう一度入り、KACCA(英語のCashierか?)と書かれている窓口が有ったので、人民元の札を見せて「ルーブリャ!」と言ってみた。
中のオバサンは意味を理解してくれたが、「ここは違う、あそこのオヤジに言ってみろ」という内容のことをジェスチャーで言ったのだった。
(ちなみにこの窓口は、ロシア出国税の支払所だということを後日中国に戻る際に知る)
 
教えてくれた男(本当に普通のそこらに居るような感じの男)が、両替屋(闇だが)なのであった。
 
(激写)この男が両替商だ。
 
1000元=3000ルーブル。たぶんぼられているのだが相場が全く分からず、他手段が無いので両替。
「change money!」という、ほとんど万国共通と思われる英語も通じなかった。ロシア語では両替を「アブミニャーチ」と言うらしい。
 
ルーブルも手にいれ歩き出してすぐ、タクシーを見つける。
駅まで150ルーブル。メーターが無いので交渉で。全く英語が通じないのだが運転手は「イーバイウー」と言った。中国語で数えることだけは出来るようだ。さすが国境の町。
 
駅舎は小さく、日本の地方私鉄の終着駅といった感じの駅だった。窓口も3つだけ。ただ、オンライン化されてはいて発券はスムーズ。
特急なんかではない普通の列車の切符なのだが、購入にはパスポートが必要。
切符には名前が入る。外国人だけではなく、ロシア人もパスポートや証明書を出している。
ソ連時代の移動制限していた頃の名残が残っている(もしかして今も制限されている?)。
 
時刻表を見るとこの駅出発の旅客列車は1日6本?
普通列車といってもひとつの駅間距離は30〜50kmは有るのでどれも長距離列車だ。
モスクワ行の急行も有ってなかなか面白い。モスクワまでは5泊程度だろうか。
 
列車の運転時刻はすべてモスクワ時刻だ。
国内でも時差が何種類も有る広大な国土を運行するためには仕方が無い。
駅舎の時計はモスクワ時刻だけ。現地時間との時差は6時間のはずだが...
 
駅前のおばさんからピロシキ(5ルーブル)を買って、待つこと1時間半。
念願のシベリア鉄道に乗り込んだ。
 
中国側の国境の建物は高校の体育館って感じ。
並んでいるのは大きな荷物を持ったロシア人ばかり。
荷物は1m * 1m *1mくらいのダンボール。
電化製品少しと大量の衣料品。

出国審査は少し時間かかる。
イミグレの係員(公安ではなく警察の腕章を付けている)が「日本人?」と鬱陶しそうな声で尋ねる。
近くに居た公安(茶色の制服)が走ってくる。
何か尋問されるのかと思ったら、「ハロー、ジャパン?」と笑顔で聞いてきた。
どうやら英語が使えるんだぞと見せ付けたいらしい、20代前半の若い男の子だ。
こんな無意味な通訳(?)を付ける必要は無いのだが、親切にしてくれるのでこっちも笑顔で応える。
イミグレの職員は不機嫌そうにパスポートを返した。

中国を出国し建物を出ると、そこには大きな河「松花江(アムール川)」が有る。
まだ完全に凍っていて真っ白だ。
対岸までは1km弱くらい。向こうの様子が肉眼で見える距離だ。
この氷の上をバスで移動する。
夏に利用すると思うジェットフォイルは打ち揚げてあった。
バスは北朝鮮のバス(ハングルの行き先表示がそのまま)や、古いロシア製のボンネットバスだ。
「ブラゴベシェンスク!?」と大声で聞いたら、バスの運転手が「ダ−!ダ−!」と答える。
行き先表示版には「Амул Транзит(アムールトランジット)」と書かれていた。

バスの中では僕は思いっきり目立っていた。
同い年くらいの乗客が握手をしてくる。
中学校で習う程度の英語を話せる男の人が、乗客を代表して僕に話しかけてくる。
車の話題が多い。
「トヨタを知っているか?」−「もちろん」
「ニッサンサニーに乗ってる」−「それはすごいね」
 
その中に空手をやっている人が居た。
「私はクロオビを持っている」と言われて驚いた。ロシア人に習っているらしい。
意外と日本のことが知られている。断片的にだが。
 
出発前に中国の公安が2人乗り込んでくる。
僕に目をつけ、何事かを中国語で話しかけてくる。
バス中のロシア人が「イポーニー(日本人!)」と答えると、
公安はホーと言って僕のパスポートをチェックする。
なぜか隣に座っていたロシア人だけ、同じようにパスポートもざっと調べた後、
バイバイと言って公安はバスを降りていった。
 
大量の荷物を積んだ北朝鮮製のバスは意外と快調に氷の上を走る。
普通の道と変わらない。氷の上ならどこでも走って良いというわけではなく、
“道路”が決められている。そこには「70km」「2t」と交通標識も刺さっていた。
この時点(3月)ではとても時速70kmなんて出せる道ではないのだが、凍り始めた頃は
氷は平らでもっとスピードが出せたのかもしれない。
 
出入国の間は写真撮影が禁止。
川の上をバスが走る光景はなかなか面白いと思うのだが、残念だが写真は無い。
 
バスを降りる時には運転手が、サインしてくれと手帳を出してきた。
名前を漢字でもっともらしくかくと握手を求められた。
なんなんだ?ここは。
 
ロシア側の建物は中国側より古いのだが、大きい。
X線の荷物チェックを受けた後、イミグレ。
係員は非常に親切で、並んでいるロシア人を押しのけて、なぜか僕に先に行けと言う。
並んでいるロシア人も笑顔。不思議な気分だ。
 
僕だけ職員3人がかりでチェックされる。ビザの残りが短いけど大丈夫なのかと聞かれる。
どこへ行くのかという質問にシマノフスクと答えたら、
招聘状は発行地がモスクワになってるじゃないかと突っ込まれる。
僕のパスポートやビザには招聘状のことは書かれていないので驚く。
そんなデータまで登録されて、こんな辺境までオンライン化されていているのか。
 
「いやモスワクにも行く予定だったが、ビザの有効期限が残り僅かなのでシマノフスクへだけ行く事にした」
と答えると、疑わしそうに見らはしたが、入国印を押してくれた。
東京のロシア大使館が作成した入国カードは必要無かった(ここ独自のカードに記入した)。
 
入国審査すぐに「移民登録所」と漢字で書かれたブースが有り、滞在登録をすることが出来た。ロシアでは外国人は、どの都市でも訪問3日以内に、オビールと言われる内務省管轄の役所にて滞在登録が義務付けられている(大きなホテルではフロントで代行してくれる)。今回はホテルに泊まることも無いので、こんな所で登録することが出来て助かった。
 
税関でさらにX線調査。荷物をあけられることも無くすぐに終わる。
 
そこをすぎ、建物を出るとそこはいきなり「ロシア」。
川の向こうの中国の町並みからいきなり、東ヨーロッパの田舎町に放り出されたのだった。


飛行機から歩いて空港ビル(3階建てくらいの建物)まで、滑走路の端を歩く。

黒河の空港から市街地までは車で20分くらいだろうか。バスは無い。

荷物を受け取り所にはタクシーの運転手の客引きが10人くらい居る。立入禁止区域も何も有った物ではない。みんな獲物を捕まえようと必死だ。
ただこちらとしても、このタクシーを逃すと交通手段が無くなってしまうので誰かを選ばなければならない。最初は50元と言っていたが、すぐに20元に落ち着く。距離からして妥当な金額だと思う。

空港の周りは何も無い。本当に何も無い。
荒野だ。色で言うと、茶色と白色がまだらになっている。
凍っているのだが雪は無い。大陸性気候で冬の間の降雨量はほとんど無いのだろう。


街の様子は...中国の田舎町と言った感じ。10階建てくらいの大きな建物も有り、 中心となる通りのクロスしているあたり数百m四方はビルが並んでいる。
建物では目立つのは賓館(ホテル)と商城(小売店が入居するデパートのような物)だ。

看板にはほとんど中国語と並んでロシア語で書かれている。
この街を素通りしてタクシーに乗ったまま、国境のゲートに向かった。

翌朝の便でハルピンをでてしまうのでハルピン滞在時間は数時間しかない。
帝政ロシア時代の建物が立ち並ぶキタイスカヤ(中央大街=китаиская=ロシア語で「中国人の街」の意)を散策。この通りに限らずハルピンには歴史の有る建物が多い。そのほとんどは西洋風建築だ。

夜8時で人通りもそんなに多くない。もう閉まっている店も多い。
ロシア料理のレストラン「華梅西餐庁」で食事。
開業1925年という老舗だそうだ。
ただ、味は期待してタクシーで行った割には...
中国人の味覚にあわせられているのかもしれない。

中国の高級レストランにはどこでも居る「いらっしゃいませガール」が僕が持つガイドブックを気になったらしく、筆談で応じる。明日ロシアに行くということを伝える。
この店には日本人は一日あたり3〜4人は来るとの事。
僕には多いのか少ないのか分からない。
店は3階建てで石造り、重厚な感じ。



通りの向かいにはハルピンの中でも由緒有るホテル「モデルンホテル」。「MODERN HOTEL」だがモダンホテルではない。(写真)

*「いらっしゃいませガール」;
店の入口に立ち、客が通ると「歓迎光臨(いらっしゃいませ)」と言う女の子。
注文を取ったり料理を運ぶウエイトレスではない。
挨拶をするのだけが仕事。大きい店には数人が立ち並んでいることも多い。
給料は一体いくらなんだろうか...
人気の職業というわけではないらしい。(天津在住/T大王談)

ハルピンでは駅前に有る龍門賓館に宿泊。
ここは1945年まで(満州国時代は)満州鉄道(満鉄)直営の「ヤマトホテル」だった。
ヤマトホテルは日本の傀儡国家、満州国のコロニアルホテル。
大連、新京(長春)、奉天、ハルピンに有った。
日本人の支配者層、外国人が主に滞在したホテルだ。

龍門賓館の貴賓楼の部分は当時のままの建物で、
そこに出来れば泊まりたかったのだが前知識が無く、
「一番安い部屋で良い」と言ってしまったばかりに新館の部屋になった。
定価580元を390元で。180元のトイレ無部屋も有るが中国人民用とのこと。
13階の客室からはハルピン駅の構内が見下ろせて見晴らしは良かった
(このハルピン駅では18年、伊藤博文が暗殺されている)。

ホテルのサービスはまぁ良い。高級感というほどではないのだが。
フロントですら僕程度の英語力(=最低限)しかないのだが、親切だ。
黒河への航空券を頼んだらちゃんと買っておいてくれた(手数料無料、結局チップも払わず)。

貴賓楼の部分は“さすが”だ。
もともとこのホテルは満鉄が建てたのではなく、帝政ロシア時代に建てられたもの。 列強が清を事実上の植民地にしていた時代、威勢を示すために建てただけあって立派だ。
年号がはめられた入口。ドアマンに、木の回転ドアを押してもらい中に入る。
フロントの前のロビー。

暖炉(今は使われていない)の前のソファーに座ってみる。


絨毯の引かれた廊下、すりへった手すりの階段、大きなシャンデリアの食堂(何室か有る)。

問題は現在の中国人の美意識がちょっと...ということだが。変な装飾や看板をわざわざ付け足したりしている。

古いというだけでない。
政治家、財閥、軍人など著名人が泊まったことというのも歴史好きには堪らないのだが、ここハルピンのヤマトホテルならではの事件が有っただろうことに思いを馳せると楽しい。
ハルピンは満州の北部、外国人が多く住んでいた都市。
日本と国民党、ロシア、アメリカなどの列強諸国、それぞれの勢力の間を彷徨う軍閥との地下交渉が行われた町だ。
秘密の保てる、日本の国家権力に守られたこのホテルで、記録には残っていない様々な事件、交渉が起こったであろうことは容易に推測される。

ハルピンにも現在は外資系のホテルが進出している。
そっちの方がここよりもずっと高級で、実際サービスも洗練されているのだが、
せっかくハルピンに来たのだったら、最初の夜にはこの龍門賓館がおすすめ。


中国ロシア国境の町、黒河までは飛行機と列車を乗り継いでいくと
うまくいけば出発の翌朝に到着できる。
こんな奥地にもたった1泊で行く事が可能なのだ。

当初の予定経路
3/17 成田−北京 JL
3/17 北京−ハルピン CA
3/17 ハルピン(夕方)−黒河(翌朝) 夜行列車

実際の経路
3/17 成田(09:30)−大連(11:30) JL797
3/17 大連(15:40)−ハルピン(18:30) CZ3603
3/18 ハルピン(11:35)−黒河(12:40) SC4897



【成田〜大連】 (日本航空797便)
大連行の便が早く出ると言うので、成田空港で航空券の変更をする。
こういうときに特典航空券は便利だ。
手数料3050円(発券時と為替変動の為税額が変更)。
大連の視界が悪く、途中で引き返す可能性有とアナウンス有ったが、気にしないことにする。
成田に戻ってくることになっても話のネタにしよう...
(大連周水子空港は、海に近いことも有り霧が出やすいので有名)
時刻どおりのいたって普通のフライトだった。



【大連〜ハルピン】(中国南方航空3603便)
大連空港到着後90分の乗継時間。ハルピン行きの中国南方航空の便が有ったので、大連空港にてチケットを購入。
何も言わなくても30%割引/Y70(定価840元を580元)で航空券を発券してくれた。

だが、出発時刻が13:10発が15:00に変更になるとのこと。
ハルピン発黒河行の夜行列車に間に合うぎりぎりの時刻だ。

空港ですることもなく3時間...
しかし出発時刻15時になってもエプロンに飛行機は見当たらない。
英語のアナウンスは有るのだが「15時に変更になりました」とだけ。
実際に飛行機が飛び立ったのは15時40分だった...
機内放送で、この飛行機は広州発大連経由ハルピン行で、広州の出発が遅れたと伝えられる。
なぜ広州の出発が遅れたかというのは伝えられないのだが...

ハルピン空港を出たのは18時半。
夜行列車は間に合わないのでとりあえず市内行のバスに乗った。
空港からは市街地は50kmも離れている。バスで50分。20元。


【ハルピン〜黒河】(山東航空4897便)
航空券はホテルのビジネスセンターで発券。580元。
ハルピン空港までタクシー。99元。100元で釣りは受け取らなかったら喜ばれた。
チップの習慣の無い国だが、1元でここまで大げさに喜ばなくても。。

 

ゲートから飛行機までバスで移動。
70人乗りぐらいの中型機。搭乗客の半分は白人。たぶん全員ロシア人。


時刻どおりのフライト。飛び立ってすぐに雲に包まれるが、
30分くらいで視界が晴れる。いつの間にか地上は真っ白の山岳地帯だった。

 
黒河空港は一日一便、この便だけが発着する小さな空港。
タラップから降りて荷物引取りのカウンターまで、てくてく歩く。
乗客の預かり荷物を積んだ軽トラが、横をゆっくり走っていた。



“あの旅”からもうすぐ2年。
記憶が薄れる前に記録を残さなくてはいけないのだが...
で、いきなりだけど、気付いた点を何個か、時間が出来た時に書いてみようかと思う。


「踏切は一旦停止」

鉄道の幹線と交差する箇所の踏切には踏切係(踏切番)が居る。
踏切係は列車が来る度に遮断機を下げ、列車が行った後に遮断機を上げる。
線路内に人が立ち入らないように監視するのが仕事だ。
日本ではいつの頃からかあまり見られなくなった光景だ。

ロシアではシベリア鉄道に沿った道を走った。沿った道と言っても広大なシベリア、 ほとんどの箇所で線路と道との間は何十kmも離れている。
都市部の路面電車を除くと、2ヶ月の旅で鉄道の踏切を越えたのは数回だけだ。
その踏切で気付いたこと。車が一旦停止しないことだ。
見渡しの良いところで列車が来ていないのだったら、わざわざ一旦停止したくない気持ちは理解できる。
でも、普通の日本人だったらそんな所でも一旦停止すると思う。
運転免許教習の時に叩き込まれているし、現に日本では法律で「踏切での一旦停止」は義務付けられているのだから。

なので、ロシア人が全然止まらずに突っ切るのを見た時は新鮮だった。
そして旅を続けて気付く。ロシア以外でも、西側諸国に入ってもそうなのだ。

もちろんどの国でも、鉄道が走っている時は線路内に入らない(当たり前だ)。
ただ列車が来ないときは踏切番や警官の前でも、全然気にしない。一旦停止しない。


旅の初めの頃にロシア人警官グループと一緒に走っていた時、休憩時にこの事を聞いてみた。
「なぜ止まるんだ?」逆に聞かれた。ロシア人の率直な感想だった。

後日、ドイツの宿で英語を話すおじさんと話した時は、分かりやすく説明された。
「遮断機が付いている踏切では遮断機が下りていない限り、止まる必要は無い」というドイツ人。
「もしかしたら列車が来るかもしれないのでは?遮断機が壊れている可能性もある」という僕。
ドイツ人は僕の言った内容を理解して言った。
「もちろん可能性は有る。じゃあ日本人は交差点で青信号の時も一旦停止してるのか?(信号が壊れてるかも、信号無視の車が来るかもと言って、青信号でも止まる車はいないだろう?)」


この人に限らず、たぶんそういう考えが一般的なのだろう。
“遮断機が上がっている=列車は来ていない=止まる必要は無い”
もちろん列車が来たら線路内には入らない。
遮断機が無く、見渡しの悪い踏切では一旦停止する。死にたくないのだから。
でも明らかに列車が来ていない(視界が良く確認できる)のならば、一旦停止する必要は無い。
そもそもそんなことをなぜ法律で定めなきゃならないのか...と。

日本人は列車が来ていないときでも一旦停止する。これは
“法律が有るから(≒警官に見つかると罰金を取られるから)”
という理由から来ているのだろう。又は“みんながそうしているから”だろうか。

欧米人の合理的な考え方、“止まる必要が無い時は止まらない”。


今回調べてみたら「踏切では一旦停止」を法文化しているのは、主な国では韓国と日本だけだった。
「列車が来ないときでも踏切では一旦停止」、これは非常識とまで行かなくても世界では少数意見なのだ。見晴らしの良い踏切で一旦停止したら、たぶんどの国でもクラクションを鳴らされる。後続車に追突される可能性の方が、遮断機が壊れている可能性よりも高いというのが、ほぼ世界中の共通認識なのだった...
 
 
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さらに調べてみると...
踏切での一旦停止を法律で定められたのは昭和30年代。まだ自動遮断機が少ない頃。
国鉄からの要請に基づいて出来たのだそう。もっと昔から有るのかと思ってた。
もちろんそれまでそんな法律が無い時も、列車が来る時は踏切には人は入らなかった。
車は急停車出来ないことも有り、高度成長期で車の台数、列車の本数ともに増え、遮断機の整備が追いつかない状況でこの法律が出来たのだった。それから40年。遮断機は普及したけど法律の条文が本来の役割からずれ、一人歩きをしているようです。
 
衆議院でも取り上げられました(第501回)。
 
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リンク2踏切はSIGNAL AUTOMATIQUEの標識が有れば一旦停止は不要です、皆ほとんどスピードを落とさず走り抜けて行きます, 決して急ブレーキは踏まないようにしましょう。日本で踏み切りが一旦停止を義務づけられているのは根底に機械は壊れるものという、フェイルセーフの思想から来ると思われますが、一般的なフランス人の考えは少し違うようです。彼らはやはり機械は壊れるものだが、人間はもっとミスをするものであると言います。とっさの時は自分で判断すべきで、何も考えず機械的に停止するのは無責任だそうです。

 
まきんちょ、まゆまゆ、としえさんと湯河原の幕山に梅を観に行く。
山頂で昼寝。恐らくB型の集まりであろう、マイペースのメンバーで計画を立てずにゆる〜い一日。
(昨晩いきなり話がまとまり、この日空いていたメンバーが来た。んだよね?)

温泉の後、タクシーの運転手に聞いた店「魚繁」へ魚を食べに行く。
恐らくこの料理を食べる為に一日歩いたのであろう、興奮を抑えながら、どれも美味しくいただく。
後ろの席で食事をしていた40代教員グループの会話がBGM。
どこが面白いと言われても説明できないのだが。女性陣の批評が厳しい。


夜は2日間の疲れで落ちるように眠る。
もし日光街道歩いてたら栗橋くらいまでは辿り着いてたかな?
千葉への終電も終わっているので、水道橋のスパラクーアへ向かう。
 
館内は食事高そうなので、ジョナサンで遅い夕食。
運動(なのか?)の後なのでおいしい。
こんな時間なのに人がたくさんで待たされる。
深夜の都会のファミレスの客層は不思議だ。
 
3/31迄有効の入場券を使用。深夜差額1850円のみを支払う。
 
馬鹿でかい大きさの健康ランド。
仮眠別途は埋まっていた。
 
入場料払うんだったらもっと良い大浴場付カプセルホテルは有ると思うのだが、
女性でも入れる雰囲気、話題性で優位に立っているのだろう、ここは人があふれている。
 
深夜の客層は帰れなくなったビジネスマン、OLがほとんど。
一人で来ている人も多いが、グループも多い。
残業後や飲み会の後にみんなで来るのか。
 
深夜2時半なのに、風呂は人であふれ、マッサージやエステには行列、
ラウンジでは仕事をしている人もちらほら。
同じ職場同士か、フロア着で談笑しているグループ。
 
都会の人はよく働きよく遊ぶ。

0603102005地下鉄日本橋駅出発20時5分、途中でヨドバシカメラ(千葉)で買った万歩計を設定し、スタート。

 
「日本橋」は駅をあがってすぐ。高速道路が上を走っている。
ちょうど今、景観論争が盛んだがわざわざ高速道路を移設するほどでもないと思う。
無い方がすっきりするのは確かだが、何千億円もかけてするほどでもあるまい。
ここよりももっと直さなきゃいけない箇所は全国にたくさん有る。
 
日本橋から人形町を経て神田川に沿って北上。
神田川を柳橋で渡る。本来の日光街道からはずれているかもしれない。
1時間ほどで浅草、雷門。仲見世はすべての店が閉まっている。
浅草寺に来たのは初めて。
境内を通りそのまま北上を続け、このあたりから隅田川を離れ南千住駅方面へ。
南千住駅をすぎてすぐ、国道4号に合流。
ここから国道4号線の歩道を歩くき、千住大橋を渡る。
この時点で22時半。北千住駅付近を過ぎ、千住新橋で荒川も渡る。
土手が高いので少し回り道をさせられる。200mほど遠回りするのだが、それだけで鬱陶しい。
 
ここでまきんちょから連絡有り。
メールでやり取りしていた計画、土曜日湯河原にハイキングに行くことになった。
週末空いていると言っていたのだった。日光計画よりも前に。
 
ここ(竹の塚)まで来たけど日光はあきらめることにした。
特に変哲も無い国道4号はっきり言ってそれほど面白くなく、湯河原の方が魅力的なので
(参加者があまり顔を合わすことが無く興味有る人ということも有って...)。
日光街道の続きは...また暇な週末にでも...と。
ここまでの移動距離は13kmで27000歩。
週末予定が無かったので、どこか行けないだろうかと地図を見ながら考えた。
関東近郊の観光地ということで日光、う〜ん一人で行くというのは渋い。
一人で旅館に泊まるのも何か変な感じだ。
 
そこで年末の自転車旅行を思い出した。
あれなら一人でも不自然ではない。だがMTBは滋賀に置きっぱなしでここには無い。
一台しかない普通の自転車で行っても良いのだが、持って帰ってくるのが面倒だ。
車は車検が切れてしまって放ってある(これも早く車検を取らんといかんが)。
...ならば歩けば良いのだ。乗り物が無くても。昔の人は歩いて旅をしたではないか。
 
調べてみたら江戸時代の五街道の一つ「日光街道」は大部分を国道4号線と名を変え、
道は整備されている。日光まではお江戸日本橋から140km。
頑張れば何とかなりそうだ(無理なような気もする。微妙な距離)。
距離感覚が狂ったんだろうか。
まぁ良い。家にずっと居るよりは。
金曜日、仕事を早く切り上げ夜7時。地下鉄東西線で日本橋へ向かった。
060305gugun週末に天津と北京へ、高校の同級生と短い旅行へ出かけた。

どちらの都市も訪れるのは10年ぶりだ
(前回は96年の8月)。

 

060306writing

上海や深センほどではないが街は変わっていた。建物よりも中国“人民”が前回と全然違う。

痰を吐く人が居ない、ごみを捨てる人が居ない。
街がきれいなのだ。
そうじをする人が居るのではなく、汚す人が居ない。
公衆トイレがあちこちに有る(特に北京)。しかも無料。
「没有〜(メイヨ〜)」を聞くことも無い。
「対不知」を使う人を見た!
買い物やタクシーに乗ると誰もが「謝々」と言うではないか!
ボラれているわけではない(え?気付いてないだけ?)
 
0603061500写真1:靄のかかる紫禁城壁
写真2:道に薄墨で字を書く老人
写真3:プリッツ北京焼鴨味、四川麻棘味
 
 
 
帰国後、こんな文章を見た。
あまりにもタイミングがよく、妙な説得力がある。

060306-gurou

帰りの飛行機の時刻まで余裕が有ったので、ホテルで自転車を借りて北京の胡同をサイクリング。

自転車は1日15元(230円)。
 
北海のまわりをあてどなく走る。
客待ちの人力車がたくさん。
これは胡同観光用のもので、市民の足というわけではない。
外人(特に白人)も多いが中国人も利用している。
 
観光客向けの店も多い。
化粧品などの昔のポスターを購入。1枚あたり10元。
最初は60元と言われたがどの店もすぐに10元まで下がる。
昨日買った文化大革命時代のポスターは本物のようだが、これは複製と思う。
年代は1930年代くらいか。
 
 
060306-kaifen
 

写真1/鼓楼

写真2/?額には愛新覚羅の揮毫
 
 
 
060306-beihai

 

写真3/北海を1周する
 
 
 
 
 
 
 
 
 
060306-cha1
昨日出会った大学生に教えてもらった茶屋(茶家博)で休憩。
 
まだ開店前だったが玄関前に居た九官鳥と話をしていたら店の人に招き入れられた。
(九官鳥は「你好!」「再会!」と、人間の子供の声で話す)

 

 

 

060306-cha2

 
花茶(銘柄忘れてしまった)を注文、38元。
他にもいろいろ有ったが割りと高めの値段設定。
ただサービスなどは良い。何時間でも居られるのでお徳かも知れん。
 
中国菓子や梅などをつまみながら、本を読み時間をつぶす。
気をきかしてくれたのかソファーのある個室。
店を出る時におばあさんが来て、そのおばあさんが「招富財宝」と書いた書を貰う。
共産主義だった(もしかして今も?)中国。
でも考えることは僕と似ているような気がする。
夕食、「大三元酒店」で食事中に日本人と知り合う。
「普通の人」と自分で言う、一応僕が年上なので遠慮がちに物を言う、
見た目は確かに普通っぽい大学生(「普通」って何だ?)。
たぶんまぁそれなりに賢いんだろう。
 
広東料理の店だったので、一緒に食べる人は多い方が良い。有名店で期待していたのだが、期待が大きすぎたのか残念ながら料理はそんなに満足するほどではなかったのだが、その学生と出会ったことで楽しい時間を過ごせた。
旅での人との出会いは、その旅の記憶を忘れさせない力を持つ。
その学生にとってもそうだと良いのだが。
 
残念なことが一つ。食事中、尋ねられてもいないのに意見(それも無責任なこと)を言ってしまった事。
僕は人に命令や指図されるのが嫌だ。それを人にしてしまったことが悔やまれる。それに、恐らく僕の言った内容はその学生の意思とは違った物であっただろうから。
 
人はみなそれぞれ違う。人生に正しい答えは無い。他人から見ると失敗に見えることも、本人はそう思ってないことも有る。その逆も。
それなのに他人から口をはさまれることは、自らの意思を持つ人にとってはうっとうしい以外の何物でもない。喜ぶとすれば、本人の意思と一致した場合か、意思を持たない人であった場合だけだ。
060305sihe02北京では「四合貧館」に泊まる。
ネットで見つけた。
王府井から歩いて15分くらい。
便利なところのわりには静か。
 
 
 
 
060305sihe01
 
故宮を皇居、王府井を銀座の繁華街とすれば、ここは浅草の旅館といったところか。
古い四合院を改装した感じの良いホテル。
中庭も良い感じ。
 
 
 
060305sihe03
 
受付も感じが良い。
ちょっとぎこちない英語、フレンドリーな対応。
 
値段がもうちょっと安かったらなぁ。
一部屋(二人)で450元(7000円)。
060305cable060305badalin1

0603041930北京拷鴨「全聚徳」。

王府井を散歩中に店舗を見つけたので入る(ここは本店ではない)。

北京ダックを1羽と、
家鴨の(がらの)スープ、
蒸した肉に卵黄をはさんだもの、
副菜少々と炒飯を頼む。
 
北京ダックはテーブルの前で切り分けてくれる。
まぁ美味いのだが、期待が大きすぎたのか...
北京ダック以外はあえてここで頼むほどでもない。
炒飯は...キュウリの入った油ごはんって感じ。
 
店の入口にはこの店に世界中から来た大物(政治家が多い)
の写真が並んでいるんだけど...
貧乏者向け料理を出されたのか知らん。

 

0603041040
天津では「ASTOR HOTEL(利順徳大飯店)」に泊まる。
たった一泊。それも深夜2時にチェックイン、9時にチェックアウトだが。
 
0603040801
 
開業1863年の租界時代の趣を残すクラシックホテル。
部屋はいたって普通なのだが、旧館の廊下やレストランを覗くとさすがと思わせる雰囲気。
文革時代をどう乗り切ったのかは分からないが古い家具なども保存してあるみたい。
 
 
0603040800
 
部屋にホテルの歴史を記した写真集がおいて有った。
滞在客にはフーバー米大統領や中国の歴史上人物がゴロゴロ。
張学良孫文なんて名前を見ると歴史好きにはたまらないだろう。
清が滅び満州国が出来るまでの間、日本租界にいた溥儀が天津でパーティをする映画「ラストエンペラー」のシーンを思い出す。
 
ホテルの周りは各国が造った石造りの建物が、現在も使われている。
もっと観光資源として活用したら、魑魅魍魎が跋扈した20世紀前半の激動の時代を再現した場所として人気が出ると思う
(現状は...う〜んって感じ)。
 
 
記念に卓上カレンダーを持って帰ろうとしたら、チェックアウトの際に10元とられた。
もっとゆっくり滞在した方が良いところ。天津自体は観光都市で