2-中国圏の最近のブログ記事
北京五輪の開会式。規模の大きさに素直に驚く。
光る太鼓(?)、巻物を模した舞台、一演技ごとに千人単位の人が出演する壮大さ、緻密さには批判の余地が無い。参加者人数が多く、2時間も延々と続く選手の入場行進は冗長、退屈にも感じたが、それぞれの国の事情やそれぞれの思いを馳せていると、いつの間にか200ヶ国の入場は終わっていた。意外な国が大きな声援を受けていたりして面白い。中国人の好き嫌いが分かる。
今から44年前、東京オリンピックが開催された。同時に新幹線が開業、そして大阪万博開催、日本は多少の浮き沈みはしながらも着々と発展した。
今回も北京五輪の後には、上海万博が控えている。先月、北京-天津間の新幹線が開業、これから続々と高速鉄道が開業する。これから中国は日本と同じ道を進むのだろうか(違う道を歩むのか)。
その開会式が行われている同じ時刻に昨日、ロシアとグルジアが交戦状態に入った。宣戦布告は無いが両国とも「戦争状態」に入ったことを認めている。ちょうど3ヶ月前にこのブログに書いたことがやはり悪い事態の方に動いている。http://www.nakanishi-keiichi.com/blog/2008/05/post-51.html
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44年前、東京五輪の開会式に合わせ、同じ日に中国はなんと中国初の核実験を行った。中国は東京オリンピックには参加していない。その後、中国の長い停滞は続いた。
歴史は繰り返すのか。愚かな歴史も栄光の歴史も。
中国は日本を意識している。日本の良い所を取り入れ、より良い国にしようとしている。
ロシアは気付かないのか、学習しないのか。戦争は国の成長を止めてしまうことに。
往路は「成田~広州乗換~南寧」中国南方航空。南寧から陸路ハノイへ。
復路は「ハノイ~台北1泊~成田」中華航空。
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5月30日(金)
夕方、成田発広州行、中国南方航空。最近の旅の出発は、金曜夜便ばかり。
沖縄周辺の気流悪いそうで、五島福江-上海-南昌ルートで飛行するので、到着約1時間遅れ。次の乗換の広州発南寧行に間に合うかと心配しながらも、がらがらの機内で横になって眠る。だが、広州で乗換の南寧行の便は4時間遅れだった(笑。
広州発深夜12時40分発。こんな時間に飛び立って大丈夫かと心配するも、南寧空港到着は深夜2時。24時間空港なんだろうか。真っ暗の空港には市内行のミニバス(15元)が1台待っていてくれた。預け荷物が無いから乗れたけど...後の人たちはみんなどうしたのだろうか...タクシーも居ないし。
バスの到着地の前にあったホテルに泊まる。80元。設備も整っているし喜ぶも、翌朝、周りには40元とか60元の宿がたくさん有るのに気付く。やられた(騙されたわけではないが)。
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5月31日(土)
バスターミナルでちょうど「越南・海防」と書いたバスが有った。「海防」は「ハイフォン」のことだと気付き、中越国境の友誼関まで切符を買う。 凭祥(ピンシャン)の街で弁当(バス代に含まれる)休憩。闇両替屋家族と会話。友誼関で国境越え。自分だけかなり詳しく調べられる(カバンの中の本の内容まで)。
*ハイフォン行は一日一便のみ。非常に運が良かったっぽい。
バスの車両は国境を越えない。乗客はベトナム側のバスに乗換、自分は最寄のドンダンまでタクシー(20000ドン=150円)。さすがベトナムは安いなと思ったら、街までは1kmくらい、歩いてでも行ける。やられた。
ドンダン到着後すぐに、ハノイ行の個人経営(?)のミニバスを見つける。80000ドン(550円)。ハノイ迄は4時間。距離の割には安いかと思いきや、歩き方には50000ドンくらいと書いてあった...やられた。
ハノイに入るといきなりの喧騒。サイゴンと比べていつも、「首都なのに田舎っぽい」と評価される街だが、田舎から来た自分にはお洒落な活気有る都市に見える。夕食はベトナム料理フルコース。満足。
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6月1日(日)
朝から一日、ハロン湾ツアーに参加。25ドル。ハロン湾までバスで片道4時間。英語ガイドを取って失敗。ハロン湾クルーズ、船内で昼食。海鮮料理を期待するも内容イマイチ。食事には食事内容、メンバー、店の雰囲気、サービスどれも重要だということを思い知らされる。
船は豪華でないものの、のんびりとした雰囲気は良い。出港時は天気悪かったが、次第に良くなる。デッキで昼寝が心地良い。
ハノイ到着は20時ごろ、ちょっと珍しい感じの料理を出すベトナム料理屋。居酒屋チック。雰囲気良い。地酒(?)で気分良くなるも、疲れが溜まっていたのか、ナイトマーケット見学は簡単に済ませて、宿にすぐ帰り一日終了。
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6月2日(月)
朝、空港でゆっくり過ごす。ハノイではベトナム語の出来るTさん一緒だったので快適だった。あっと言う間。
午後、台北着。
翌朝までの数時間、いったい何をすればよいのか。桃園空港からとりあえず台北駅までバス、ネットカフェで3時間過ごす。台北から高鉄(台湾高速鉄道)で桃園まで。20分、平日割引で110台湾元(400円)、非常に安い。日本の新幹線「はやて」とほぼ同型の車両。快適。高鉄桃園駅から、在来線の桃園駅まではバス30分。高鉄切符を見せると無料で利用できる。
結局桃園のホテルで深い眠り。台湾では一度も食事もせず。
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6月3日(火)
早朝に空港、朝食は機内食。昼に成田着。すぐに仕事場へ。
成田通関時に「一体どこに行ってたんですか?」と尋ねられる。先月のハワイと韓国と今回の中国/ベトナム/台湾のスタンプがごちゃ混ぜに押してあり、確かに時系列が読めない。ただ、もう咎められる割合は減った。何でだろう?
ほとんど移動で何をしてたんか良く分からんが、充実した週末だった。
ハノイの活気にのまれた。帰国して一日、雑用に終われて忙しいが変な気分。
台風のせいで渡嘉敷からの船も、羽田への飛行機も揺れた。今日も朝から久しぶりの雨だ。ついていない。
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四川省で地震のニュース。重慶で死者、上海/北京でも体感したとのこと。上海と震源地との間は2400km離れている。同じ距離で日本で当てはめたら「稚内の地震で函館で死者、福岡でも感じた」くらい離れているのに。これが本当ならかなりの大地震、四川省ではかなりの死者が出ているはず。
まだ報道されていないが、震源地に近い所のほうがもっと被害が出ているはずなので。(阪神大震災の時も、地震の次の日の新聞見出しは「大阪で死者4人」だった。大阪で新聞配達してた僕はかなり違和感あった)
震源はチベット人自治区とのこと。先月の旅行でもめた成都空港は閉鎖。飛行機から見下ろしたあの地域はかなりの山岳地帯、これからテレビでは都市での被害状況が報道されるだろうが、都市から離れた農村のことはたぶん伝えられないだろう。
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今一番興味が有る国イエメンで邦人2人誘拐、無事釈放とのこと。以前から危険が指摘されていたマーリブでとはいえ、初の日本人被害。とうとう起ったかの感。イエメンの誘拐事件で出される要求は、「水道を造ってくれ、橋を架けてくれ」といった社会インフラを求めるものであることがほとんど。人質は誘拐されても客人扱いされる。切ない。
(注)昨年人質のスペイン人が殺害された。絶対安全というわけではない。首都サナアから陸路で出る場合は政府軍の許可が必要。危険地帯には護衛がつく。
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ミャンマーでのサイクロン被害、もう既に他のニュースに埋もれてきた感。100万人被災/3万人死亡とのことだが、報道規制(?)で詳細分からず。何万人なんて数字は実際にカウント出来るものではない。復興するにはどれくらいかかるのだろうか。
p.s. そう言えば、mixiの僕の顔写真はミャンマーで撮ったもの。山の方なのでたぶんあの村は大丈夫だろうが...
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自分が行ったところに次々と事件が起る(と言う程でもないか?)。ただ、すぐに自分は何か行動を起こすというわけではない。募金なども滅多にしない。不謹慎ととる人も居るかもしれないが、自分は「早く旅行に行けるようになってほしい」と思うだけだ。
ただ自分には、いや自分にこそ出来ることは、その地域の魅力を伝えることだと思っている。渡航出来る状態になった時は人に旅行を勧めることだと思っている。
旅をすることによって幸せを得られるのは旅をする人だけではない、来てもらった方も幸せを感じることが出来るのだ。もちろん金銭的な支援にもなる。
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p.p.s
チベット亡命政府も観光を推奨している。たとえ観光によって中国政府側に金銭的利益を与えることになっても、観光により得られる/与えられるプラスの影響の方が大きいのだ。
http://
---以下引用文---
客観的情報を独占する中国にとって、自由観光事業が最も有効なチャレンジなのです。チベットへの個人の観光客(旅行家)の数が増せば増すほど、中国当局による観光客への行動制限や、現地チベット人との接触防止をより難しくさせるのです。情報に接していない観光客は、中国はチベットへの侵攻以来、チベット地域にプラス面のみをもたらして来た、と誤って信じ込んでしまうかも知れません。たとえ、団体旅行の一員であったとしても、準備を整えた好奇心の強い観光客は、チベットの現状について非常に貴重な情報を収集することが出来るでしょう。大勢の観光客がチベット人と接触することによって、中国の見かけだけのところを越えた、チベット世界における力強い洞察をもたらすことが出来るでしょう。
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空港からのバスから、延安東路で降りた。夜10時半。 中心部に行けばまぁ宿くらい何とかなるだろうと思ったが...無い。 人通りも多くない。もっと中心地へと思い、人民広場まで行くも7000円くらいのホテルばかり。妥協して(?)それでも良いのだが、どうせ寝るだけ、安宿でよい。歩き続けて1時間、南京路までやってきた。途中で何か食事でもと思っていたが、手ごろな店が無い。そもそもレストランが無い。上海ってこんなんだっけ? 南京路で「飯店」(ホテル)の文字を見つけたのは日が変わろうとしていた。 1泊200元。トイレ・シャワー付。宿泊者は5人ほど。壁が薄いので音が筒抜け。夕食はマクドナルドのセット。 |
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朝、外灘を散歩。観光客は減った。数年前の人ごみで歩きにくかった記憶しかないのだが。 朝食は浦江飯店で食べようと決めていた。昔は(お金が無くて)食べれなかったバイキングへ。 |
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迂回路を通って浦江飯店、噂には聞いていたが立派になっている。 今はもう安宿ではない。いや昔から「安いドミトりー」は有ったが、決して安宿ではなかったはずなのだが... 今は1泊20000円くらい? |
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朝食バイキングは10時までであと10分しかない。だがせっかくだから入ろうとするも、180元と聞き断念。 スタッフにホールの写真を撮ってよいか聞くと、「私に見つからないように撮るように」という答え。あぁこんな受け答え、人民中国だった時代では考えられない。 |
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懐かしいホテル内を散策。 3年前リニューアルされて、開業当時の雰囲気に戻っている。 とても日本では江戸時代だったころに建てられたものとは思えない。 ここに泊まった世界の著名人達の写真が廊下に掲げられている。 10年前は日本の貧乏旅行者達が600円で泊まっていたのか...なんて勿体無い。 廊下を歩くと記憶がよみがえる。 そうそうこの渡り廊下を渡ると、多人房(ドミトリー)の部屋。 今はレトロおしゃれなツインになっていた。 売店で絵葉書を売っている。[上海]の絵葉書は値引いてくれるが、[浦江飯店]のはまけてくれない。 なんでこれをそんなに欲しいのかと聞かれ「10年前に泊まったここのファンだ」と応えると、「あぁドミトリーね」と言われる(笑)。ドミトリーに泊まったとは言ってないのに... |
| 朝食をとろうと隣の上海大厦に行くも、ここもまともなレストランは11時から。フロントで「近くに良いレストランは無いか」と尋ねると、「すぐ近くにハイアットが出来たばかりだ、そこは良いだろう」とのことで勇んで赴く。 ...着いた所には高層ビル。番地は合っているがホテルの表記はまったく無い(中国では施設名を書いた看板が建物の概観を台無しにしていることが多い)。不思議に思いながらも中に入るも大きなフロアに人影はまばら。 綺麗なお姉さんに「あのーここ、ハイアットっすよね?」「ええ、もちろん」 「あぁ良かった、何か食べたいのだけど」「はい、何が宜しいでしょうか?」 「え?どんなのが有るの?」「フレンチとカントン、それにイタリアンのカフェなど。」 「うーん、河が望めると聞いたんだけど」「それなら一番上にフレンチのレストランが」 「もう昼だけど、一人で入ってコースでも良い?」「えぇもちろん、お望みのものを」 ...頭に危険信号が灯った。分相応だ。ありがとうと言って外に出た。 (追記)去年オープンしたハイアット・バンド。世界一高さが高いグランドハイアット上海とは違う。 こんな感じの客室だそうな。いったいいくらなんだ?バンドスイート。こういうところに来れる身分に早くなりたい。 | |
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結局、朝食兼昼食は浦江飯店のバー。 ローストダックをオレンジソースで。68元(800円弱)。 うん、おいしい。贅沢すぎないこれくらいのものが身分相応だ(笑)。 絵葉書を書いていたらコーヒーをサービスしてくれた。 |
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のんびりしていたら飛行機の出発時刻まであと1時間半!! |
| 空港からバスに乗って、新市街地に到着したのは夜10時を過ぎていた。途中の道は真っ暗で車窓からは何も見えなかったが、市街地に入ると、普通の中国の都市だ。雲南省まで来てもほとんど変わらない。看板をデカデカとあげた10階建てくらいのビルが並んでいる。 新市街地を1kmほど歩くと大きな水車、旧市街地「麗江古城」の入り口。すごい数の観光客。98%くらいが中国人だ。 1997年に世界遺産になってから、また中国が急激に成長した時期とも重なり、観光地と化してしまったという。 こんな時間でも通りは賑やか。建物はすべて木製、車は通行禁止。すべての建物が土産物屋か食事屋、宿泊施設。観光業100%のすごいエリア。
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朝、宿を出てみると、夜とは違ったまた良い雰囲気の町並み。観光客だらけなのが気になるが、自分もその中の一人であるのだから文句は言えない。古城街は2km四方くらい有るだろうか。丘の上まで家が連なっている。もっとも、観光客を狙った“古城街風”エリアも有る...木造で同じつくりなのだが。今も新しい家が次々建てられている。 |
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納西族(ナシ族)の服装は男よりも女の方が特徴が有る。それにナシ族は女系家系だ。男性が女性の家に婿に入る。 古城街で機織しているのは明らかに観光用でわざとらしいのでは有るが、服装は普段からこのような格好をしている。右側の写真の青い服を着ているのをよく見かける。翌日自転車で郊外に行くが、この姿で畑仕事をしているおばさんをたくさん見た。 ただ、都市部はやはり移住してきた漢民族が多い。 ナシ料理は割りと淡白な味で、日本人に向いているかもしれない。 |
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ナシ族のもう一つの特徴は「東巴文字」(トンパ文字)(リンク先参照)。世界で現存する唯一の絵文字だ。漫画みたいで面白い。人を表す文字が良い。 宿の人が、名前をトンパ文字で書いてくれた。「圭」を表す文字が見当たらなかったようだが...確か「圭」は中国語でグイと読んだような(違ったかも)気がしたので、当て字で書いてもらう。 |
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| 飛行機が一日遅れたせいで、目指す香格里拉(シャングリラ)の街には時間的に行けなくなった。 せっかくなので麗江の街を出て郊外に行くことにした。目指すは15km離れた白沙の村だ。自転車を借りた(一日15元)。 |
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![]() 途中、東河鎮という村を通る。観光地化されており入場料を取っていたりもするが、あまり“作られた”ものは興味が無く、わざと入らなかった。普通の集落を観るだけで十分楽しい。そう言えば海外で田舎をサイクリングしたのは初めてかも。 |
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自転車で田んぼの中の一本道を走っていたら、前方に集落が見えてきた。あれが目指す“白沙”かと思いきや、近づくと大きな建物だった。何だと思い入り口の下にあった礎石を見るとなんと[BANYAN
TREE]と書いてあるではないか。こんな所に??バンヤンツリーって中国にも進出していたのか。それも看板がない。街で買った地図にも載っていない。たしかに一般中国人には無縁な施設だろう。お金を持っていても成金には面白くなさそう。 門番に「ちょっと休んでも良い?」と聞くと、日本人が自転車で来たのかと笑わってゲートを通してくれた。 すぐにスタッフが3人も飛んでくる。まぁ暇なんだろうなぁ... カフェまで案内してくれる。暖炉も僕のためだけにマキをくべてくれる。冬は寒いのだろう。こういうリゾートはビーチしか行ったことが無いけど、タイの北部などもきっとこんな雰囲気なのだろう。 一番安い78元(1000円)の中国茶。雲南の何とか茶と説明してくれたけど忘れた。おいしい...なんでこんなに味が違うの?? 絵葉書を書いて休む。 帰国後サイトで探した。公式サイトはあっさりしているが、こんな感じ。1泊500ドル(51000円くらい)だが結構混んでいるという。僕が行ったときは数組の欧米人や香港人っぽい人が散歩してただけだが。 1時間ほど休んでいる時にちょうど夕立が来た。 もう動きたくなくなったが、そうも行かない。暗くなるまでに白沙に行かなくては。 |
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白沙の集落は静かだった。滋賀県の田舎に来たみたい。 特に何も無い普通の集落。観光客は滅多にこんな所まで来ないだろう。 家は立派。手造りだがしっかりしている。景気が良いのか建設中の家も多い。 |
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水はきれい。大きな川は無いが、小さな流れがあちこちに有り、水の流れる勢いも早い。目の前に5000m急の山々がごろごろ有るので水には困らないだろう。雪解け水は冷たい。子供が「ニーハオニーハオ」と声をかけてくる。観光客(漢民族)は歓迎されているようだ。 | |
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白沙壁画というのが有名らしいが、どこなのかさっぱり分からず。この先に寺が有るというので、ゆっくり坂道を登っていくが結構疲れる。自転車があまり良いものではないということも有るが、ここの標高が3000m近いことが理由だと思う。少し張り切ってスピード出すだけで息が絶え絶えになる。 牛を何匹も連れたおばさん。ムチのようなものを持って、何か叫びながら牛を追い立てている。この村の女の人は青い服を着ていて、背中を紐で縛っている。 寺はどこかと訪ねると、はるか彼方の方角を指してくれるが、何も見えない。大きな山々の裾を一本の道が伸びている。あきらめて麗江に帰ることにした。暗くなったら危ない。 |
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| 街に戻ってきたところで、自転車二人組を見かけたので声をかける。スイス人で昆明から10日かけて自転車で来たという。よくこんな高地を...それも上りではないか。自転車で旅をしている人を途中で見かけたかと聞くが、自分達だけだという。「熊出没注意」のステッカーが張って有ったのでそのことに触れると驚かれる。やはり中国人だと思われていた...日本は北海道を横断したとのこと。 | ||
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| 割と良い立地にチベタンの店が有った。主に欧米人パッカーの溜まり場のようになっていた。チベット料理は...うーん、やはり日本人には微妙な味。腕が悪いのではなくこういう味なのだ。時期が時期だけにどうかと思ったが、店は非常に良い雰囲気だった。 | ||
| これまでの経緯はVOL1から
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飛行機は行ってしまったので、到着客の流れにのって一旦空港を出てからもう一度出発ロビーへ。 [重要顧客-VIP]と書かれたカウンターへ。 値班主任という肩書きの、どれだけ偉いのかよく分からない女の人。 「スタッフから話は聞いています。翌朝10時に麗江への便が有りますから、今日は成都に泊まってください。」と言われる。 僕をホテルに連れて行くように、案内のスタッフへ指示を出す。 ただし費用は僕が払うように、と。今回のは航空会社に責任があるのではなく、空港の保安要員の指示だから、航空会社としては従わなくてはとのことで。 |
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案内小姐は「日本人?コンニチハ」とか話しかけてくれるが、あまり良い気分ではない。 「国航賓館」は、送迎車を手配してもらうほどではない、空港の目の前だった。 1泊180元。3階建ての寄宿舎のような建物だった。 (夜に成都で「麻婆豆腐」発祥の店で食事。これは別の機会に) |
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翌朝8時、歩いて空港へ。 |
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![]() セキュリティチェックの所に有った看板。 「ラサ、リンチー、ジョンヅーへ行く旅行者は4.5.6番通路を通るように」 当然だが、そこはチェックは厳しいのだろう。
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夕方、また成都空港に。まず、経済席カウンターで言われた言葉。 「そんな予約は有りませんよ。まずは発券カウンターに行ってください」 いや、何となくそんなことも起こるだろうと思ってはいましたが。 発券カウンタに並ぶ。 漸く順番が来て職員が言った言葉。 「なぜ発券カウンターに?もうbookingしているのだから、チェックインカウンターに行きなさい」 経済席カウンターの職員; 「私は英語だめだから、隣のカウンターへどうぞ」 経済席カウンターの職員; 「貴賓席カウンターへどうぞ」 貴賓席カウンターの職員;「Welcome on board!」 今回で初めて、会話する前に僕を外国人だと見抜いた職員は言った。 「隣のカウンターへどうぞ」。 隣のカウンターというのはまたもや「重要顧客カウンター」だった... (上記簡単に書いているが、中国で並ぶというのがどれだけ大変か...) まともや朝とは違う値班主任。 話を聞いた値班主任はコンピューターと格闘しながら、僕に聞いた。 「あなたのチケットは先週の3月12日まで有効(valid)となっています。 これはどこで購入(buy)したチケットですか?」 --本当にValid date ですか?何かのLimit の間違いでは? 「いや、間違いない。予約を入れようとしてもエラーが出る」 --チケットは日本にあるユナイテッド航空で入手(get)しました。 --有効期限が先週ってことはないでしょう。だって昨日もこの航空券で上海から来たのだから。 「big problem...」と英語でつぶやく職員。 値班主任が2人話し合っている。(全部で何人居るんだ?) 奥に消えたスタッフが、10分ほどして戻ってきて笑顔で言った。 「搭乗券が出来ました。さぁどうぞ!急いでゲートへ!」 |
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そこで僕が特に疑問を持たずに、搭乗券(航空券ではない)を受け取ったのが、次回の事件を招くことになるのだが... やっと麗江に行ける事になった僕は、ほっとしながら一日遅れで中国国際航空4451便に乗ったのだった。 (ちなみにこの日はPCについて何も言われなかった) 四川省、雲南省の山々の上を飛んでいく。 雲の上は月が明るく、本当に明るく輝いていた。 |
目的地の香格里拉(シャングリラ)までは飛行機で行く
麗江からバスで4時間のチベット族の町。
3/20 成田-上海(一泊)
3/21 上海-成都(乗継)-麗江(2泊)
3/23 麗江-昆明(乗継)-重慶(乗継)-北京(1泊)
3/24 北京-成田
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上海の空港で「麗江」までのチェックインしかせずに
「成都」までの搭乗券を受け取ったのが問題の始まりだった。
「成都」での乗継は3時間。十分余裕もあり、空港の
カフェでメールを書いたりして過ごした。
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「成都」での「麗江」までのチェックインは特に問題なかった。
変わった点といえば、人が多かったのでファーストクラスカウンターで受付してもらったことくらい。
荷物のセキュリティチェックは滅茶苦茶混んでいた。
ここ成都はラサや昌都などチベットへのフライトが有る。
ジャケットを脱ぎ、くつを脱ぎ、ズボンのボタンにも反応する金属探知機を越える。
いやなぜと言われても...確かに旅行に持っていくのは初めてですが。
電源を付けるように言われる。
「いえ、バッテリーが無いので付きません」
なぜつかない?
「ここのコンセントの形が違うので」
変換プラグも変圧器も持っているのに?
「僕に言われてもそんなの知らん。」
爆発物の恐れがある。本当にパソコンか?
「いや、だからどうやって証明しろと?」
パソコンの放棄は...しないですよね。
「もちろん」
上の者に聞いてくる、とパソコンを持って消える係員。
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搭乗時間が過ぎる。警備員にどうすんねん、と搭乗券を見せる。
理解していない警備員に「ソーリーソーリ」と言われても...
係員が戻ってきて、パソコンを僕に返して言った。
「BYE!!」
搭乗口に走ってくる僕を航空会社のスタッフが気の毒そうに見ている。
滑走路ではAirChinaの航空機が動いていた。
開平から珠海へのバス。途中、ガソリンスタンドでの給油休憩のとき、乗客がバスを降りて煙草を吸ったところ、スタンドの従業員が「ここで吸っちゃ駄目だ」と軽く注意をしたら、乗客逆切れ。言葉分からないけど何言ってるのかよーく分かった。
この事件のせいで出発遅れる。いい加減にしてほしい。
土曜日の夜なのでホテルどこも高い。部屋の空きはどこも有るのだが...
1泊230元のまぁフツーのホテル。
夕食は偶然近くにあった「鼎泰豊」で魯肉飯定食。18元。いまいち。一人で食事するときに飲むことは日本では無いのだが安いのでビール(たしか瓶で3元)を飲む...がやはり面白くないのですぐ部屋に戻った。せっかくなので小龍湯包をお土産に。台湾で食べた時は感動したのだが...
深夜だが人通り多い。新宿に居るようだ。
(写真)珠海に有ったたこ焼き屋。3個で3元。
マヨネーズかわさびソースを追加できる。
割とはやっていた。他の物価からすると高いように感じる。
意外とうまかった。
11月19日日曜日
翌朝はマカオへ。年に一度のマカオグランプリの日だ。まさかこの日だとは日本を出るときには思いだにしていなかったのだが、ホテルの人に聞いて思わずあっと声を出して驚いた。
写真/国境は週末に越境する人で大混雑。
越境所要時間約3時間。今までで一番時間がかかった。
国境からはカジノの無料バスを乗り継いでフェリーターミナルへ。ここがスタート地点であることは知っていたので。
チケットは朝までは残っていたようだが、残念ながらSOLD OUT。
(写真)SOLD OUT。
チケットは売り切れていたがフラッグやキャップなどの記念品は値引き販売していた。
マカオグランプリ(Grande Prémio de Macau/澳門格蘭披治大賽車/Macau Grand Prix)は83年から毎年行われているF3レース。F1への登竜門という位置付けで初代優勝はアイルトンセナ。他にもシューマッハなどが優勝しており、将来のヒーローの卵が眠っているらしい。今回は中島一貴など日本勢のえんとりーも多く注目されている...らしいのだが前知識無く、残念ながら自分には分からない。(帰りに香港で、自動車雑誌の編集者&レースチームのアシスタント(?)と知り合うも、理解できず...すいません。)
モナコグランプリと同じで専用レースコースではなく市街地で行われる。だから観覧席のチケットが入手できなくても市内のいたる所でレース自体は見れるのだ...と思ってたがちょっと違った。走っている「車」は見れるのだが...時速300km/h(正確な数字は知らない)の車を至近距離で見てもさっぱり分からない。写真を撮ろうと携帯カメラで試みたがさっぱり写らない。唯一、車(?)が写っていたのがこれ。
フェリーターミナルとリスボアの間の公園の壁によじ登ったりいろいろ抵抗はしてみたが...観覧席(2箇所有った。実況やモニターも有る)に入らないとさっぱり訳が分からない。
とりあえずレースの時間帯は街中に車の爆音が響き渡る。コースにはほかの車や人が入ってこないようにガードが作られるのだが、急なカーブなども多い。リスボアのカーブ前で見ていたときは、自分の視界で事故を2度も見た。車はすぐにクレーンで吊り上げられコース外に出される。世界でもっとも難易度が高いコースというのは実感できて面白い。チケットさえ前もって買っていればもっと...
レースが終わった後は、カジノは夜に残しておいて市内を散歩。香港を朝に出る飛行機で帰国するので、マカオは深夜4時ごろの高速船で出るので宿は取っていない。
八角堂。元は何だったか忘れたけど居間は小さな図書館。
聖フランシスコ公園。ミリタリークラブの上に有る小さな公園。観光客が来るというより子供が砂場で遊んでいるような小さな公園だけど、アズレージョ(ポルトガル製のタイル)がきれい。静かで良い。
セナド広場は日曜日の夕方ということで賑わっていた。観光客も地元の普通の人の買い物客も。
写真はドミニコ協会の前で。ジョルダーノやG2000といった香港カジュアルブランドの店が並ぶ。
一歩それるとこんなに静か。
スターバックスも街の雰囲気に溶け込んでいる。入ったこと無いけど。
(セナドの近くで休むならやっぱり義順の牛乳プリンになってしまう...)
暗くなってきたけど歩き続ける。
写真はドンペトロ劇場を坂で上がって聖ヨセフの聖堂近くで道に迷って撮ったもの。
聖オーガスティン教会は工事中で入れず。
聖ローレンス教会は日曜日は午前中のみで入れず。
聖ヨセフ修道院は...ここは入れるのか?一度も入れた試しが無く、今回もまた入れず...(結局どこにも入らず歩き続ける)
壁にイエズス会の紋章(写真)。今も現役だけど...日本人だとやはりザビエルや、大航海時代に世界中で布教活動をした歴史を想像してしまう。街中至る所で歴史を感じさせるマカオが好き。
暗くなって食事場所を探して坂を下りる。繁華街に行かないとめぼしい店はなさそう。
大豪邸。たしかポルトガル領事邸だったはずだが?
特別行政区政府。ポルトガル時代のをそのまま使うあたりが粋だ...満州でも日本統治時代のものをそのまま使ってたりするけど。
夕食はタイパ島にタクシーで渡り「ガロ」で。大勢で入ってポルトガルワインをみんなで飲むほうが楽しいし、料理もいろいろ食べれるのだが...おしゃれな店って訳ではなく素朴な店って感じなので。
タラのリゾット(名前忘れた)などを食べる。一人でオーダーするようなものでもないようで腹一杯になる。食べきったけど...
帰り、半島へ戻るバスに乗ってみると何と「無料」。マカオGP開催中は市内至る所で交通制限が有るのでバスは全路線無料とのこと。知っていれば行きもタクシーではなくバスを使ったのに...
リスボアはますます景気が良いようで、新しくタワー棟を建設中。去年キムケンの勝利祝賀会を開いた料理屋のあったブロックはすべて取り壊されていた。
すぐ近くに新しいカジノ「wynn 永利」がオープンしていた。ラスベガス資本の巨大カジノのマカオ進出ということでなかなかおしゃれだ。金沙(Sands)のような感じ。
客はもちろん大陸からの人民がほとんどなのだが。
で。負けました。前回分すべて&+α持って行かれてしまいました。
赤炊鎮のバスターミナルでバイクタクシーに乗る。近くの村を回るよ。どこ行きたい?と聞いてくる。バイクに乗るのが怖くて断っていたのだが、バイクでも乗らないことには範囲が広くて移動手段が無い。バイクタクシーはバス停の周りに居てすぐに見つかる。タクシーは開平市内部にしか居ない。
バイクの運転手の客引きもあっさりしたもので、「要らん」と言えばそれ以上言い寄ってこない。ぼったりはしていないようだ。20元で自立村までチャーター。片道10kmくらい。村と村とをつなぐ道は舗装されている。快適。
自立村(“革命”後につけられた名前とすぐ分かる)は観光地化されており、入村料が必要。
村内の楼閣はどこでも入って見学できる。まぁ特に何かが有る訳ではないのだが、せっかく来たのだから楼閣に登ってみないと。
楼閣は開平周辺に1833棟有るとのことだが、見学できるようになっている所は少ない。今も人が住んでいる所も有るのだが、ほとんどは廃墟となっているようだ。一部は犯罪者の巣窟になっている危険な所も有るようだ。国共内戦が終わり、共産主義が台頭するにつれ、ここに住んでいた「資本家」は危険を感じ、ほとんどが海外脱出をしたようだ。元は労働者なのに。
幸せってなんだっけなんだっけ...
この地域が貧しかったことと、香港/マカオ/広州(当時は英仏資本がなだれこんでいた)が近くに有り外国が身近だったことで、開平出身者は世界中に散っていった。現在も開平同郷会の活動は盛んなようで、その活動の様子が展示してある。
アメリカ、カナダ、オーストラリアは特に多く何十万人も居る。日本は少ないのはどうしてだろうか。神戸、横浜に居る華僑とは系統が違うようだ。
開平周辺は、太平洋戦争初期に激しい戦闘が行われたようだ。楼閣は本来、匪賊から身を守るために建てられたものであり、戦争の時はここに立て篭もった中国軍と攻撃側の日本軍との間で激しい戦闘が有ったそうだ。日本軍のイメージは非常に悪いです。ただ、資本主義という点で広東人は日本自体のイメージは悪いと言うわけでもなく、複雑な感情のようだ。
楼閣の中。100年前にしてはかなり豊な暮らしと言えるのでは。
この楼閣に住んでいた人たち。いかにも「成功者」というオーラが出ている。
立派な神棚(中国では何と言うのだろうか)。
文革時代に取り壊されていたものを、修復したっぽい。
中華民国時代のフィリピン航空のポスター。格好良い。中国にこんな物が残っているとは。戦争や文革をどうやって乗り越えたんだろう。
1907年のオークランド銀行の証書。
どれくらいの価値があったんだろう。NZでどれくらいの労力で得たのか、そして広東でどれくらいの物を得ることが出来たんだろう?
ビザだったかな?サンフランシスコへの船のチケットかも。(記録するの忘れた。携帯電話のカメラで撮影したんで文面が読めない)
自立村を出た後に、通り道だから見ていきなさいという薦めにしたがって「立園」へ。自立村を観光中は、バイクタクシーの運転手は近くに居たピーナッツ売りのおばちゃんとお茶を飲みながら待っていてくれた。
立園は貧しくしてアメリカに渡り成功した「謝維立」さんが、故郷に錦を飾った際に造った邸宅。馬鹿でかい庭園で有名だそうで、今は観光客がたくさん来ている。
家の前にはスーツを着てポーズを決めた銅像。近江商人とはちょっと違う自己顕示の仕方だ。
ただ、こんな人生も良いなぁ。どうやって一代でこんな巨万の富を得たのだろうか。100年前に貧しい中国人が、言葉も文化も違うアメリカへ渡る。人種差別も激しかった頃に。洗濯工を地道にやってても、鉄道敷設工事に汗をいくら流したところで、こんな富を得るのは無理だ。どんな労働で元手をためて、いったい何の商売をしたのだろうか。知りたいことは一杯だが、日本語の情報はない。ネットで「謝維立」検索しても出てくるのは「謝維立的四個太太」( 謝維立の4人の妻)なんて情報ばかり...
残念ながら立園についたときは既に夜7時。外はまだ明るいが、閉園時間ということで建物には入れなかった。庭を少し散歩。日本庭園のような繊細さは無いが、中国と西洋の入り混じった、でも最近改装したなというのが分かる、庭園というより公園だった。
手作りお菓子を買う。確か1元か2元。
素朴で良い。バスで食べるのにピッタリ。
赤坎鎮まで送ってもらい、バイクタクシー運転手と別れる。一日しか回れなかったが、開平市内に宿を取り2日以上かけてバイクで回れば楽しいような気がする。赤坎鎮に泊まるのも面白いかも。たぶん超格安(一番良い部屋でも60元くらいらしい)。
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「マカオグランプリの夜」につづく
週末を利用して中国広東省の「開平」という町(地域?)へ行ってきた。開平は珠海からバスで3‾4時間の所にありに在り、人口70万人。どうやら世界遺産になるらしい。聞いたことの無い名前の町、気になって行ってみた。
そもそもなぜここが世界遺産になったかというと、この地域に多く建つ建物が独特の様式だからだ。中国の片田舎に突如として西洋風建築が何軒もそびえ立っているのだ。その数1,833棟(現地資料館の説明による)。
それも最近中国の景気が良くなって建てられたというのではない。今残っている物で一番多い年代で1920年代という。日本では大正時代だ。
なぜこの地域にこのような城のような塔が建てられたかというと、この地域は昔から水害と盗賊に苦しめられてきたかららしい。村人たちは災害、犯罪から逃れるために自衛の為に立派な家を建てるようになったという。
そして清代末期、アヘン戦争で清はイギリスに負け、香港(ここから200kmくらいか)はイギリス領となる。広東には外国人が支配者層として入り込む。そして貧しかった農民達は、ゴールドラッシュに沸くアメリカやオーストラリアへ移民としてり渡っていった。もちろん自分の意思で行ったものよりも、アヘン代や小作料など借金が払えなくなったり、人身売買、騙されて出国した者も多かっただろう。
しかしこの移民達の中には成功者も現れた。苦労して外国で働いて得た資産を彼らは地元に送金した。出稼ぎ先の国から仕送りしてくる資産は、当時の国力の差もあり莫大なものであった。その資金によって彼らは家を建てた。異国から送られてきた絵葉書を見ながら見よう見まねで建物はどこか不思議な形をしている。
年を経るにつれ、成功して帰国して錦を飾る者も出てきた。彼らは資材も欧米から輸入し豪華絢爛な建物を建てたのだ。
行く前に千葉中央図書館をざっとみたのだが、資料が全く無い。ガイドにも一切載っていない。ネットでみつけたサイト「開平の歩き方」に唯一にして、しかし使える情報が有った。
世界遺産博士のIっちゃんに開平に行くと言ったら...既におさえておられた。さすがだ。
Kaiping Dialous (開平碉楼−開平市政府の英語サイト)
11月17日金曜日。仕事を早めに終わり夕方、成田より港龍航空にて香港へ。また成田でラウンジ使えず。無料権持ってても意味が無い。空港まで近いと時間の余裕を持って行くことが無く、いつもぎりぎり。
香港空港からなんと珠海行の高速船が間に合う。これを使えば香港の街に行く必要がない。マカオにも寄らずに行けるとは驚き。ランタオの空港から深セン行のフェリーも有った。来る度にどんどん変わっていく。前回からまだ半年も経っていないのに。
11月18日土曜日。朝(と言っても昼前)、珠海洪北バスターミナル(マカオとの国境すぐ)からバス。チケットを買ってすぐに出発。バスは頻繁に出ているようだ。
高速を使わないで日本の国道のような道を延々と走り続ける。乗る前に買ったぶっかっけ飯(5元)を食べ、居眠りしてると開平の中心にあるバスターミナルに到着。そこから市内バスに乗り換え、とりあえず赤水炊鎮(“鎮”は日本で言う“村”や“集落”の意)へ向かう。
赤坎鎮以外にも楼閣は周囲数十kmにわたって点在している。特に情報も無くどこの村に向かうか迷うが、赤坎鎮行のバスが有ったので特に理由も無く。
赤坎鎮はこじんまりとした街だった。建物はどれも3階建て程度。洋風のベランダが有る家が多い。旧くて独特の雰囲気。中国ではなく、タイなどの東南アジアに有る中華街の雰囲気。
建物の色は落ちて古〜いなんとも言えない雰囲気。ただ昔日の繁栄ぶりは分かる。撮った写真は人が誰も写っていないので廃墟のようだけど、実際はもっと人が居て適度に賑やか。
バス通りから路地に入っていくと、川沿いの通りに出た。柳の木の下で将棋をする老人、いすに寝て新聞を読む人、ゆっくりした時間の流れ。中学生の団体が写生をしていた。
それにしてもなんと独特の眺め。100年前の上海のフランス租界やベトナムでも似たような風景が見れたかもしれない。
どうやらこの建物は売りに出されているみたい。
値段は書かれていない。とりあえず電話をとのこと。
静かな生活をするのにぴったり。生活費は格安。
映画撮影用に復元したエリアが有った。入場料20元。
受付の女の子が僕が日本人であることに気づき驚く。香港人と思われていたようだ。「英語が下手でごめんなさい」と言われる。いや、こんな所で英語で話しなくてもいいですよ...(僕は英語使いではない)
割と絵になる。
移民についての展示室で。
当時のアメリカの新聞の風刺画。
[The Chinese must GO!]
当時の生活用具。
移民が出発する様子。
ここは港町で目の前の川からも海外に多くの人が旅立っていったようだ。
当時の資産家の家を実物大で再現してある。吹き抜けになった天井。ステンドガラス、シャンデリア。
中国といえば大小。
外では新婚写真を撮っている人がいました。
夏目房之介のコラムを読んでいたら、深夜テレビで見た「千手観音」に驚いたという文章が有った。
自分も中国を旅行中にテレビで見たことがあり、そのレベルの高さに驚いたことがあったので、その踊り(適切な言葉が見つからない)のことだとすぐ気づいた。
ネットで検索したら動画を見つけることが出来た。一度、生で見てみたい。
女の人が何人か縦に並び「千手観音」を表現する。中国雑技のメジャーな演目。実はこの人達は耳が聞こえないそうで、そのことにもまた驚かされる。
満州建国前からハルピンは国際都市として栄えていた。日露戦争前からロシア人は何万人と住んでいたし、日本企業進出前から欧米の企業が数多く進出していた。
実際にこの目で見て実感できる。日露戦争、満州事変から第二次世界大戦、国共内戦と戦争は続いたが、市街地で激しい戦闘が行われなかったことも有り当時の西洋建築が数多く残っている。状態も良く、これだけまとまった数が残っている所は少ない。保存されるのでなく、現在も使用されているからだろうか。
帰りの飛行機までの数時間の間、旧市街地を荷物を背負いながら散策したら、面白い建物を見つけることが出来た。
(左)建物の外観。
(右)門の上に有る独特のマークは!ダビデの星。
黒龍江省と接するロシア領内に「ユダヤ人自治区」が有る。イスラエル建国よりも前から有るユダヤ人の為の土地だ。実際はスターリン時代のシベリア流刑と変わらないのだが。ロシア帝国崩壊後、多くの白系ロシア人、ユダヤ人がここを経由し、資本主義者に対して中立(一応)の満州国にやってきたのだ。これとは関係ないが、杉原千畝の助けたユダヤ人も、リトアニアからソ連領内を経由しここへやってきている。
白系ロシア人の活動の中心となったのがここハルピン。その資産は莫大でニューヨークやロンドンの商社もハルピンに活動拠点を置いた。満州国成立以降はさすがに連合国の企業は減るのだが、行き場の無い白系ロシア人&ユダヤ人は勢力を残し、ポリシェビキ(共産主義者など)への反発も有り、日本帝国政府などとも結びつきを強めた。その在住ユダヤ人の子弟のための学校が、この写真の建物なのだ!
現在は朝鮮系中学校&韓国語学校。
入口に有る看板を見てまた驚く。ユダヤ人学校が現在は「朝鮮第二中学」と「韓国語学校」として使用されているのだ。なんて奥の深い...。ここに通っている中学生(朝鮮系中国人?)はダビデの星の意味を分かっているのだろうか。今はどこに行ったのか分からない、この学校の卒業生の数奇な運命をもっと知りたいと思った。
(左右)旧市街地の様子。ロシア正教の教会なんか、よく残っていたものだと感心する。東ヨーロッパに来たみたい。看板が中国語で、町行く人の服装を見たらまぁ中国なのは隠しようがないんだけど。
昼食に中華料理屋に入った。
この店の売りは北京ダックのようで一羽60元。
その他にもアヒルのメニューがあり、手ごろな価格だが、北京ダックはこの前食べたばかり。狗肉(犬肉)なんてのが有ったので注文する。
狗肉石鍋 15元
冷麺 3元
水餃 5元
哈尓濱ビール(ビン) 6元
オーダーする際に僕が中国語を話さないのことに気付かれる。
朝鮮人かと聞かれ日本人だと答えると、店員がわなわな集まってきた。
目立ちたくなかったのだが...こうなったら仕方ない。
写真などを撮って話題を集めてみた。
僕の注文した料理は韓国人が食べるものだそうだ。
そう言われてみればそうだ。
ところで店員は「朝鮮人」と言わずに「韓国人(ハングーレン)」と言った。
こんな所にまで韓国人は進出しているのだろうか。
(吉林省には朝鮮系の住民は多いが、黒河はそうでもない)
犬の肉は初めて食べた。もつ鍋のようだ。
この時点で客は自分のほかに2組。
ロシア人男2人組と、中国人3人組。ロシア人のテーブルには料理がたくさん並んでいる。不思議そうに僕を見たので、自分は日本人だと話すとタバコを勧めてきた。料理も勧められたが、もう腹一杯と僕のテーブルを指差すとロシア人も笑っていた。向こうも料理の分量が分らず大量に注文してしまったらしい。
テーブルの上には家鴨も一羽居た。ありがたく一口だけ頂く。
中国で何を買うのかと尋ねたのだが、この二人は親子で、買出しではなく観光できたらしい。
「指差しロシア語会話」がまた役立つ。英語も多少話すので何の仕事をしているのか尋ねたら何と、父親はヘリコプターの操縦士、子供(28歳)の方は建築士(ビルのエンジニアと言った)。それも1990年まで、シベリアのほぼ東端、アラスカにも近いアナディールという町に住んでいたと言う。ヘリコプターは軍隊ではなく、民間のものだと言う。エリートなんだろうか。珍しい人と知り合えた。
この2人も特にする事が無いようで、1時間以上話をした。
ウォッカ狂いで無かったので良かった。
(今までの経験では、食事中に仲良くなって、酒を勧めあうと最後は滅茶苦茶になる可能性が高い)
この店にも居る“いらっしゃいませガール”含む従業員達と写真を撮ろうとしたが、恥ずかしがって写りたがらない。嬉しそうにはしてるんだが。
筆談をしていたテーブル担当だけ写真を撮った。


























































































