広東省の最近のブログ記事
往路は「成田~広州乗換~南寧」中国南方航空。南寧から陸路ハノイへ。
復路は「ハノイ~台北1泊~成田」中華航空。
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5月30日(金)
夕方、成田発広州行、中国南方航空。最近の旅の出発は、金曜夜便ばかり。
沖縄周辺の気流悪いそうで、五島福江-上海-南昌ルートで飛行するので、到着約1時間遅れ。次の乗換の広州発南寧行に間に合うかと心配しながらも、がらがらの機内で横になって眠る。だが、広州で乗換の南寧行の便は4時間遅れだった(笑。
広州発深夜12時40分発。こんな時間に飛び立って大丈夫かと心配するも、南寧空港到着は深夜2時。24時間空港なんだろうか。真っ暗の空港には市内行のミニバス(15元)が1台待っていてくれた。預け荷物が無いから乗れたけど...後の人たちはみんなどうしたのだろうか...タクシーも居ないし。
バスの到着地の前にあったホテルに泊まる。80元。設備も整っているし喜ぶも、翌朝、周りには40元とか60元の宿がたくさん有るのに気付く。やられた(騙されたわけではないが)。
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5月31日(土)
バスターミナルでちょうど「越南・海防」と書いたバスが有った。「海防」は「ハイフォン」のことだと気付き、中越国境の友誼関まで切符を買う。 凭祥(ピンシャン)の街で弁当(バス代に含まれる)休憩。闇両替屋家族と会話。友誼関で国境越え。自分だけかなり詳しく調べられる(カバンの中の本の内容まで)。
*ハイフォン行は一日一便のみ。非常に運が良かったっぽい。
バスの車両は国境を越えない。乗客はベトナム側のバスに乗換、自分は最寄のドンダンまでタクシー(20000ドン=150円)。さすがベトナムは安いなと思ったら、街までは1kmくらい、歩いてでも行ける。やられた。
ドンダン到着後すぐに、ハノイ行の個人経営(?)のミニバスを見つける。80000ドン(550円)。ハノイ迄は4時間。距離の割には安いかと思いきや、歩き方には50000ドンくらいと書いてあった...やられた。
ハノイに入るといきなりの喧騒。サイゴンと比べていつも、「首都なのに田舎っぽい」と評価される街だが、田舎から来た自分にはお洒落な活気有る都市に見える。夕食はベトナム料理フルコース。満足。
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6月1日(日)
朝から一日、ハロン湾ツアーに参加。25ドル。ハロン湾までバスで片道4時間。英語ガイドを取って失敗。ハロン湾クルーズ、船内で昼食。海鮮料理を期待するも内容イマイチ。食事には食事内容、メンバー、店の雰囲気、サービスどれも重要だということを思い知らされる。
船は豪華でないものの、のんびりとした雰囲気は良い。出港時は天気悪かったが、次第に良くなる。デッキで昼寝が心地良い。
ハノイ到着は20時ごろ、ちょっと珍しい感じの料理を出すベトナム料理屋。居酒屋チック。雰囲気良い。地酒(?)で気分良くなるも、疲れが溜まっていたのか、ナイトマーケット見学は簡単に済ませて、宿にすぐ帰り一日終了。
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6月2日(月)
朝、空港でゆっくり過ごす。ハノイではベトナム語の出来るTさん一緒だったので快適だった。あっと言う間。
午後、台北着。
翌朝までの数時間、いったい何をすればよいのか。桃園空港からとりあえず台北駅までバス、ネットカフェで3時間過ごす。台北から高鉄(台湾高速鉄道)で桃園まで。20分、平日割引で110台湾元(400円)、非常に安い。日本の新幹線「はやて」とほぼ同型の車両。快適。高鉄桃園駅から、在来線の桃園駅まではバス30分。高鉄切符を見せると無料で利用できる。
結局桃園のホテルで深い眠り。台湾では一度も食事もせず。
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6月3日(火)
早朝に空港、朝食は機内食。昼に成田着。すぐに仕事場へ。
成田通関時に「一体どこに行ってたんですか?」と尋ねられる。先月のハワイと韓国と今回の中国/ベトナム/台湾のスタンプがごちゃ混ぜに押してあり、確かに時系列が読めない。ただ、もう咎められる割合は減った。何でだろう?
ほとんど移動で何をしてたんか良く分からんが、充実した週末だった。
ハノイの活気にのまれた。帰国して一日、雑用に終われて忙しいが変な気分。
赤炊鎮のバスターミナルでバイクタクシーに乗る。近くの村を回るよ。どこ行きたい?と聞いてくる。バイクに乗るのが怖くて断っていたのだが、バイクでも乗らないことには範囲が広くて移動手段が無い。バイクタクシーはバス停の周りに居てすぐに見つかる。タクシーは開平市内部にしか居ない。
バイクの運転手の客引きもあっさりしたもので、「要らん」と言えばそれ以上言い寄ってこない。ぼったりはしていないようだ。20元で自立村までチャーター。片道10kmくらい。村と村とをつなぐ道は舗装されている。快適。
自立村(“革命”後につけられた名前とすぐ分かる)は観光地化されており、入村料が必要。
村内の楼閣はどこでも入って見学できる。まぁ特に何かが有る訳ではないのだが、せっかく来たのだから楼閣に登ってみないと。
楼閣は開平周辺に1833棟有るとのことだが、見学できるようになっている所は少ない。今も人が住んでいる所も有るのだが、ほとんどは廃墟となっているようだ。一部は犯罪者の巣窟になっている危険な所も有るようだ。国共内戦が終わり、共産主義が台頭するにつれ、ここに住んでいた「資本家」は危険を感じ、ほとんどが海外脱出をしたようだ。元は労働者なのに。
幸せってなんだっけなんだっけ...
この地域が貧しかったことと、香港/マカオ/広州(当時は英仏資本がなだれこんでいた)が近くに有り外国が身近だったことで、開平出身者は世界中に散っていった。現在も開平同郷会の活動は盛んなようで、その活動の様子が展示してある。
アメリカ、カナダ、オーストラリアは特に多く何十万人も居る。日本は少ないのはどうしてだろうか。神戸、横浜に居る華僑とは系統が違うようだ。
開平周辺は、太平洋戦争初期に激しい戦闘が行われたようだ。楼閣は本来、匪賊から身を守るために建てられたものであり、戦争の時はここに立て篭もった中国軍と攻撃側の日本軍との間で激しい戦闘が有ったそうだ。日本軍のイメージは非常に悪いです。ただ、資本主義という点で広東人は日本自体のイメージは悪いと言うわけでもなく、複雑な感情のようだ。
楼閣の中。100年前にしてはかなり豊な暮らしと言えるのでは。
この楼閣に住んでいた人たち。いかにも「成功者」というオーラが出ている。
立派な神棚(中国では何と言うのだろうか)。
文革時代に取り壊されていたものを、修復したっぽい。
中華民国時代のフィリピン航空のポスター。格好良い。中国にこんな物が残っているとは。戦争や文革をどうやって乗り越えたんだろう。
1907年のオークランド銀行の証書。
どれくらいの価値があったんだろう。NZでどれくらいの労力で得たのか、そして広東でどれくらいの物を得ることが出来たんだろう?
ビザだったかな?サンフランシスコへの船のチケットかも。(記録するの忘れた。携帯電話のカメラで撮影したんで文面が読めない)
自立村を出た後に、通り道だから見ていきなさいという薦めにしたがって「立園」へ。自立村を観光中は、バイクタクシーの運転手は近くに居たピーナッツ売りのおばちゃんとお茶を飲みながら待っていてくれた。
立園は貧しくしてアメリカに渡り成功した「謝維立」さんが、故郷に錦を飾った際に造った邸宅。馬鹿でかい庭園で有名だそうで、今は観光客がたくさん来ている。
家の前にはスーツを着てポーズを決めた銅像。近江商人とはちょっと違う自己顕示の仕方だ。
ただ、こんな人生も良いなぁ。どうやって一代でこんな巨万の富を得たのだろうか。100年前に貧しい中国人が、言葉も文化も違うアメリカへ渡る。人種差別も激しかった頃に。洗濯工を地道にやってても、鉄道敷設工事に汗をいくら流したところで、こんな富を得るのは無理だ。どんな労働で元手をためて、いったい何の商売をしたのだろうか。知りたいことは一杯だが、日本語の情報はない。ネットで「謝維立」検索しても出てくるのは「謝維立的四個太太」( 謝維立の4人の妻)なんて情報ばかり...
残念ながら立園についたときは既に夜7時。外はまだ明るいが、閉園時間ということで建物には入れなかった。庭を少し散歩。日本庭園のような繊細さは無いが、中国と西洋の入り混じった、でも最近改装したなというのが分かる、庭園というより公園だった。
手作りお菓子を買う。確か1元か2元。
素朴で良い。バスで食べるのにピッタリ。
赤坎鎮まで送ってもらい、バイクタクシー運転手と別れる。一日しか回れなかったが、開平市内に宿を取り2日以上かけてバイクで回れば楽しいような気がする。赤坎鎮に泊まるのも面白いかも。たぶん超格安(一番良い部屋でも60元くらいらしい)。
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「マカオグランプリの夜」につづく
週末を利用して中国広東省の「開平」という町(地域?)へ行ってきた。開平は珠海からバスで3‾4時間の所にありに在り、人口70万人。どうやら世界遺産になるらしい。聞いたことの無い名前の町、気になって行ってみた。
そもそもなぜここが世界遺産になったかというと、この地域に多く建つ建物が独特の様式だからだ。中国の片田舎に突如として西洋風建築が何軒もそびえ立っているのだ。その数1,833棟(現地資料館の説明による)。
それも最近中国の景気が良くなって建てられたというのではない。今残っている物で一番多い年代で1920年代という。日本では大正時代だ。
なぜこの地域にこのような城のような塔が建てられたかというと、この地域は昔から水害と盗賊に苦しめられてきたかららしい。村人たちは災害、犯罪から逃れるために自衛の為に立派な家を建てるようになったという。
そして清代末期、アヘン戦争で清はイギリスに負け、香港(ここから200kmくらいか)はイギリス領となる。広東には外国人が支配者層として入り込む。そして貧しかった農民達は、ゴールドラッシュに沸くアメリカやオーストラリアへ移民としてり渡っていった。もちろん自分の意思で行ったものよりも、アヘン代や小作料など借金が払えなくなったり、人身売買、騙されて出国した者も多かっただろう。
しかしこの移民達の中には成功者も現れた。苦労して外国で働いて得た資産を彼らは地元に送金した。出稼ぎ先の国から仕送りしてくる資産は、当時の国力の差もあり莫大なものであった。その資金によって彼らは家を建てた。異国から送られてきた絵葉書を見ながら見よう見まねで建物はどこか不思議な形をしている。
年を経るにつれ、成功して帰国して錦を飾る者も出てきた。彼らは資材も欧米から輸入し豪華絢爛な建物を建てたのだ。
行く前に千葉中央図書館をざっとみたのだが、資料が全く無い。ガイドにも一切載っていない。ネットでみつけたサイト「開平の歩き方」に唯一にして、しかし使える情報が有った。
世界遺産博士のIっちゃんに開平に行くと言ったら...既におさえておられた。さすがだ。
Kaiping Dialous (開平碉楼−開平市政府の英語サイト)
11月17日金曜日。仕事を早めに終わり夕方、成田より港龍航空にて香港へ。また成田でラウンジ使えず。無料権持ってても意味が無い。空港まで近いと時間の余裕を持って行くことが無く、いつもぎりぎり。
香港空港からなんと珠海行の高速船が間に合う。これを使えば香港の街に行く必要がない。マカオにも寄らずに行けるとは驚き。ランタオの空港から深セン行のフェリーも有った。来る度にどんどん変わっていく。前回からまだ半年も経っていないのに。
11月18日土曜日。朝(と言っても昼前)、珠海洪北バスターミナル(マカオとの国境すぐ)からバス。チケットを買ってすぐに出発。バスは頻繁に出ているようだ。
高速を使わないで日本の国道のような道を延々と走り続ける。乗る前に買ったぶっかっけ飯(5元)を食べ、居眠りしてると開平の中心にあるバスターミナルに到着。そこから市内バスに乗り換え、とりあえず赤水炊鎮(“鎮”は日本で言う“村”や“集落”の意)へ向かう。
赤坎鎮以外にも楼閣は周囲数十kmにわたって点在している。特に情報も無くどこの村に向かうか迷うが、赤坎鎮行のバスが有ったので特に理由も無く。
赤坎鎮はこじんまりとした街だった。建物はどれも3階建て程度。洋風のベランダが有る家が多い。旧くて独特の雰囲気。中国ではなく、タイなどの東南アジアに有る中華街の雰囲気。
建物の色は落ちて古〜いなんとも言えない雰囲気。ただ昔日の繁栄ぶりは分かる。撮った写真は人が誰も写っていないので廃墟のようだけど、実際はもっと人が居て適度に賑やか。
バス通りから路地に入っていくと、川沿いの通りに出た。柳の木の下で将棋をする老人、いすに寝て新聞を読む人、ゆっくりした時間の流れ。中学生の団体が写生をしていた。
それにしてもなんと独特の眺め。100年前の上海のフランス租界やベトナムでも似たような風景が見れたかもしれない。
どうやらこの建物は売りに出されているみたい。
値段は書かれていない。とりあえず電話をとのこと。
静かな生活をするのにぴったり。生活費は格安。
映画撮影用に復元したエリアが有った。入場料20元。
受付の女の子が僕が日本人であることに気づき驚く。香港人と思われていたようだ。「英語が下手でごめんなさい」と言われる。いや、こんな所で英語で話しなくてもいいですよ...(僕は英語使いではない)
割と絵になる。
移民についての展示室で。
当時のアメリカの新聞の風刺画。
[The Chinese must GO!]
当時の生活用具。
移民が出発する様子。
ここは港町で目の前の川からも海外に多くの人が旅立っていったようだ。
当時の資産家の家を実物大で再現してある。吹き抜けになった天井。ステンドガラス、シャンデリア。
中国といえば大小。
外では新婚写真を撮っている人がいました。




































