975戦後の最近のブログ記事

中国史の目撃者」毛沢東から鄧小平まで
ジョン・ロードリック/著、山田耕介/訳
1994年7月14日
TBSブリタニカ

"COVERING CHINA" by John Roderick

~ロドリックさん、あなたがドアを開けました。
1971年4月12日 周恩来

語学の才と機知を認められて、アメリカの諜報要員として徴兵された地方新聞記者青年。インドを経て重慶政府付として第二次世界大戦末期に四川省に向かう。戦後はAP通信特派員として中国共産党の取材に当たる。長征にも同行し、延安での中国共産党埋伏時代も経験した唯一の外国人記者となったために、毛沢東を始めとする革命第一世代と個人的な繋がりを持つ貴重な経験を得る。当時の描写部分がこの本で最も盛り上がる部分だ。
文化大革命時代は入国できなかったために、日本で中国の定点観測を行うのだが、文革前の経験が有る為に適切な判断をすることが出来ている。中国とアメリカが再び外交を結ぶきっかけとなるピンポン外交も同行するなど、非常に稀有な経験をしている。
89年の天安門事変での鄧小平の学生弾圧の判断について批難はしているが、鄧小平のその決断については予め予測していたようだ。

この本を読み、中国共産党のこれまでの経緯について評価はしなくてはいけない。毛沢東と鄧小平の業績はやはり大きい。ただ、彼(著者)も何度も悔しさ(?)を交えて書いているが、毛沢東と鄧小平の"変わり身"が残念でならない。
ハル・ライシャワー
上坂冬子/著
講談社
1994年12月

現代史・ノンフィクションで有名な上坂冬子。駐日アメリカ大使に嫁いだ旧華族出身のハルの足取りを取材したもの。日本人の心を持ったアメリカ人に嫁いだ、アメリカ人の心を持った日本人。戦前にアメリカに留学、ニューヨークに暮らしていたハルの特異な人生を記している。"ハル"は福井のまきんちょと似ていると感じた。

三つの祖国」ほどには驚きは無かったのだが、日米親善に尽くした二人のことを知れたのは良い。

この本の主題とずれるが、明治学院大学やライシャワー邸を建てた繋がりで、ヴォーリス(彼も日本人、それも華族と結婚している)のこと、戦争時にアメリカのスパイの疑いをかけられての暮らしについて触れられている。近江八幡出身の者として興味深い。

「オリンピア~ナチスの森で」
沢木耕太郎
1998年5月31日

ベルリンオリンピックを記録した映画「オリンピア」。監督のレニは戦後ナチスの協力者として批難されながらも、強い意志で生き続けた。彼女はダンサーとして成功を収めたときに映画監督と知り合い女優になる。映画に惹かれ自分で撮るようになった途端「オリンピア」で成功する。戦後映画界から追放されてからも写真家となり、70台でダイビングを習得、水中写真家としても有名になる。
その彼女にベルリンオリンピックの時の状況、真相を語ってもらうために著者はインタビューを試みるが...

当時の"日本人"の活躍が興味深い。
「コースチャから北方領土へ」
~ひらかれるソビエト極東と北海道~
NHK札幌放送局 日ソプロジェクト編
平成3年3月20日 株式会社NHK北海道ビジョン

「戦場カメラマンが書いた~
イラクの中心でバカとさけぶ」
橋田信介
2004年1月20日
アスコム
/ 「戦場特派員」 橋田信介
2001年12月20日実業之日本社

マスード長倉洋海
2001年11月 河出書房新社

アフガニスタンの英雄マスード将軍。カブールの豊かな家で育ったが、ソ連の侵攻に伴い武装勢力を率いて山に篭りソ連と戦う。誰とでも気さくに接し、日本を含め海外にファンも多かった。ソ連撤退後の混乱の中、彼はタリバンとも戦い自由を目指したのだが、アラブ人のテロに遭って亡くなる。ジャーナリストを名乗る男の質問に応えているとき、ビデオカメラの中に仕掛けられていた爆弾にやられたのだった。

彼が亡くなったのは2001年9月9日。あのアメリカでの同時多発テロのわずか2日前だった。

その後の世界の流れは周知の通り。反タリバン勢力は散り散りになり、タリバンとアルカイーダは勢いを増した。アメリカはタリバンとアルカイーダ掃討を目指してアフガン・イラクに侵攻した。だが未だに平和は訪れていない。
/ 「不肖・宮嶋inイラク―死んでもないのに、カメラを離してしまいました。」
宮嶋茂樹/著
2003年7月 アスコム/刊
著者の代表作(写真集として)になるのでは。さすがだ。カメラマンという肩書きを利用したエッセイストではと思えるくらいの著者だが、今回は命を張っての写真にただ感心する。イラクやアメリカ兵の写真よりも、市民が略奪している写真の方が印象深い。注釈もなかなか気が利いている。

「炎熱商人」 深田祐介
文芸春秋 昭和57年5月30日刊

総合商社の在フィリピン支社に出向することになた木材商社の社員を中心に、フィリピンと日本との関係を描く。個性的な(ステレオタイプで没個性的とも言えるのだが)日本人とフィリピン人の登場人物達の対比する書き方が良く、惹きつけられる。
フィリピン人の父と日本人の母との間に生まれた少年が太平洋戦争に巻き込まれていく件が良い。

世界に進出する日本人、特に高度成長期のビジネスマンの姿を巧く描いており、海外に赴く日本人にとって参考になる部分があるのではないか。

日本、アメリカ、スペイン、そして土着の文化が接していて交じり合ってはいるが、どちらでもない複雑な関係、フィリピンを理解するのに良い。この本はもちろんフィリピンについて書かかれているのだが、実は"日本人とは"について書かれているのかもしれない。
帰らなかった日本兵」 長洋弘

太平洋戦争後も、インドネシアに残留、日本に帰らなかった(帰れなかった)日本人のその後を追うルポ。幸せに過ごす人、どう見ても幸せとは言い難い人。波乱万丈の人たちの戦後を追う。
この本が書かれたのは10年前。判明しているだけで当時177人の人がまだ生きていた。
この本に出てくる人達は今はどうなっているのだろう。


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「私は大正10年(1921年)2月13日秋田県河辺郡浜田村で生まれました。子供の時から船乗りになると決めていました。 千葉の砲術学校で訓練を受けた後に「秋田丸」に乗りました。20歳でした。船長は岡田熊吉さん(千葉県出身)で、乗組員は38人でした。神奈川県の三崎港を基地にしてトラック島やサイパンでマグロを捕っていました。

そんな時、太平洋戦争が始まりました。昭和17年11月20日、船が海軍に徴用されました。乗組員はそのまま全員が軍属(軍属:戦闘を行う軍人ではなく、軍で働く者)になりました。正式には日本海軍暁部隊の軍属です。三崎港からニューギニアまで食料・弾薬・兵士を運びました。その後は日本軍の進駐したインドネシアのジャワ・スマトラの島嶼間を、食料品・油などを運びました。

昭和18年になるとアメリカ軍の爆撃がひどくなりました。海の上で見つかったら、こんな小さな船、一発でおしまいです。運が良かったのか。徴用された船で残ったのは秋田丸くらいです。終戦はシンガポール、マラッカ沖でラジオを傍受して知りましたが、誰も信じませんでした。

敗戦を実感したのは8月下旬パカンバルに連合軍の憲兵が上陸し、150人の(連合軍の)捕虜を解放したときです。連合軍の命令で、その開放された捕虜たちをシンガポールに運びました。船尾に掲げていた日本海軍旗は降ろされました。その後は秋田丸は復員船として、スマトラ各地からシンガポールの間を行き来しました。敗戦国日本の将兵はみじめでした。

私は昭和22年(1947年)、秋田丸を下りた時に国を捨てる決心をしていたのかもしれません。
秋田丸は私の人生そのものです。鳥海山、十和田、なまはげ。秋田丸には私の祖国そのものが詰まってました。

日本軍が居なくなったインドネシアでは、オランダからの独立運動が盛んに成ってました。義勇軍出身のインドネシア人に誘われてゲリラ戦を闘いました。インドネシア独立後も私はインドネシア海軍に残りました。マレーシア紛争、イリアンジャヤ奪回作戦に参加した私はインドネシア海軍が日本から購入した輸送艦アマハイラ号に乗って、船の修理のため横浜に行きました。インドネシア海軍軍人としてです。22年ぶりの帰国でした。

母はその2週間前に老衰で亡くなっていました。父は私の幼少の頃に亡くなっています。私はこの帰国の2年前に初めて手紙を書きました。「万次郎です。お許しください。内地では私は死んだものとなっていると思います。元気です。ご安心ください。日本の商船、漁船がたくさん来ています。一度私も日本に行ってみたいと思います」

私はインドネシア政府から英雄勲章をはじめ15の勲章をいただきました。しかし私の勲章は秋田丸なのです。秋田丸はイギリス軍に引き渡してから見ていません。もう一度あの白い船体を見てみたいものです。」

1970年(昭和45年)、安藤はインドネシア海軍を退役し、長い戦いは終わった。
彼は1960年(昭和35年)の夏の出来事を今でも鮮明に思い出すと言う。

「インドネシア海軍がソ連(当時)に発注した軍艦エリアン号を受取にウラジオストックに行きました。その時私はそこで、ドッグで働く多くの日本人と出会ったのです。白髪が混じりまるで老人のようでした。終始監視され自由の全く無い彼らは、日本が平和になったことすら知りませんでした。戦後15年経っているのに。彼らがその後どうなったかは私は知る由も有りません。あの時に離隊した私に比べ、戦後の祖国を知らない彼らより私は恵まれていると思いました」

~~イスマエル・タンジュン・アンドウ ~日本名:安藤万次郎
ジャカルタにて過ごす。妻と子供7人~~

秋田県の記録によれば、秋田丸は秋田県水産試験場調査船として1933年建造。東部太平洋、沿海州の漁業調査後、1944年海軍に徴用、スマトラ文政官所属漁業指導船となる。戦時下の記録は混乱のため不明。1945年スマトラ島パカンバルにおいてイギリスに没収、乗組員は捕虜として抑留後復員、とある。

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波乱万丈の人生を過ごした人が次々と紹介される。
上記の彼の歩みは特に、僕が行った場所といろいろとかぶることもあり、気になった。
ちなみに彼はかなり成功した部類に入る。悲惨な人は本当に悲惨な人生を過ごしている。

 「瀬島龍三-参謀の昭和史」 保阪正康

1991年 文春文庫

三つの祖国―満州に嫁いだ日系アメリカ人
上坂冬子/中公文庫

満州国国務大臣の孫、奉天市長の嫁として満州に嫁ぎ、戦後の混乱で中国を出国、アメリカ人と再婚し、今は池坊の教授としてアメリカで生きる日本人の戦後を描く。この人をはじめ、まだこんな経歴の人が多く生きているのだが、あと10年ほどで居なくなるのかと思うと残念。

 「プリンス近衛殺人事件」

V.A.アルハンゲリスキー著、瀧澤一郎訳。2000年 新潮社

 「不肖・宮嶋の一見必撮!チェチェンニテ一人相撲スの巻」

2004年2月 文春文庫 宮嶋茂樹

「大放浪-小野田少尉発見の旅」 鈴木紀夫

1995年9月初版 朝日文庫

戦後30年を経過後にフィリピン、ルパング島。小野田少尉を発見した青年の旅行記。"旅人"の感覚が分かる人が読めば面白い。自分の身近にもこういう人多いなぁ。普通の日本人が読むとあきれるのだろうが。

「日本人とユダヤ人」 イザヤ・ベンダサン

角川文庫 昭和46年9月30日