「台所から北京が見える ~36歳から始めた私の中国語」 長澤信子 昭和58年12月15日 東京ジャーナルセンター 「36歳の主婦が始めた中国語の学習記録」であり、中国語の学習方法や中国への渡航記録を書いているのであるが、この本の主題はそうではない。目標を持って行うと結果が着いてくるということを述べるために著者はこの本を買いたのであろう。
「中国 見たもの聞いたこと」 西野広祥 1990年11月20日 天安門事件前後に、大連へ語学留学していた著者(40代男性)のエッセー。

「冬の鷹」吉村昭

日本初のオランダ語翻訳書 "解体新書"を著した前野良沢杉田玄白の後半生を記す。
二人の性格の違いが分かり面白い。記録文学(?)の吉村昭の本領発揮。

オランダ語を理解していたのは前野良沢であって、杉田玄白や中川淳庵は応援役(?)でしかなかったこと、だが杉田のサポートが無ければ出版するところまでは辿り着けなかったであろうこと、解体新書には前野良沢の名前は記されていないことなどを今回初めて知った。

人嫌いで孤独な学究肌の前野、人付き合いがうまい杉田。目的を同じとする時期(翻訳中)は仲良くするが、出版後は全く別の道を歩む。前野は引きこもりで貧しく蘭学者として一生を過ごし、杉田は金銭と名誉を得て有名医者となる。二人とも80歳以上も長生きし、30年後に長寿を祝う集いで再会する。現代にも通じる何かが有るようで興味深い。彼らがオランダ語習得を始めるのは40歳を過ぎてからというのも重要だ(当時の平均寿命は50歳)。

"解體新書"について初めて知ったのは「まんが日本の歴史」で、小学校の高学年の時。杉田玄白がオランダ語の原書「ターヘル・アナトミア」を翻訳する有名なシーン。「鼻はフルヘッヘンドである」のフルヘッヘンドの意味が分からず悩む場面。

フルへッヘンドという単語が出てくる文章は他は「落葉を集めるとフルヘッヘンドである」という文章のみ。そこからフルヘッヘンドとは"うず高い状態"を表すと、杉田玄白は推測する。小学生の時には自分はその翻訳のすごさに気付かなかった。


江戸の一医者だった前野良沢がどうやってオランダ語を訳すか。通詞を通して辞典(もちろん蘭日辞典ではなく、蘭蘭辞典)を入手し、パズルを解くように一単語づつ日本語に訳す気の遠くなる作業。

Tafel Anatomie原書がなんとネットで観れる!(さすが慶応大学)
1.最初に絵を探す。291ページ目に有る絵に、人間の頭の上に「A」と符号が打ってある。
2.次に「A」の符号に対しての説明文を探す。
3.その文中の単語を1個づつ蘭蘭辞典で探す(その文章は頭について記述してあると推測される)。
4.その単語について辞典に書かれている説明文に出てくる単語を1個づつピックアップする。
5.その単語が、他に別の文章で使われていないか探す。
6.その単語が出てくる箇所を見比べて、その単語の意味を推測する。
という作業の繰り返し。

アルファベットも知らないところから医学書を訳すのだからすごい。
大文字/小文字から始め、筆記体は日本語の楷書と行書の違いだと知る。文法も日本語と違い述語が目的語より前に来る事(SV,SVO型)を漢語と同じであることと見抜く。

現代の語学の勉強にも通じることだが、何事も興味を持って打ち込むことが重要であることに気付かされた。

江戸時代のオランダ語通詞は、文章を書けず簡単な会話しか出来なかたことも興味深い。オランダ語を教育する機関も無く、通詞は世襲で代々親から子に伝えていたということ。実用に適さない(全く能力の無い人)はさすがに役から外されるからで、能力主義だったこととか。



(脱線1)
フルへッヘンドの話は創作で有ることも今回初めて知った。ターヘルアナトミアの鼻についての記述には、フルヘッヘン(verheven)は出てこない。この逸話は杉田が解体新書発行20年後に「蘭学事始」で書いたことで、吉村昭はこのことから、名声を得た杉田はオランダ語に対する情熱を失った現れであると推測している。

ただ、自分はうまく言えないが少し違うように感じる。過去の栄光に対する意識の美化...と言うか。誰しもに同様なことは起こりうると思うのだが。


(脱線2)
前野良沢は九州中津藩医師。杉田玄白と中川淳庵は越前若狭藩医師(二人は先輩/後輩)。解体新書の挿絵を書いた小野田直武は秋田角館藩武士。良沢に弟子入りする大槻玄沢は奥州一関の在野の一学者。
江戸時代の地方のレベルの高さに驚かされる。



(脱線3)
大学生時代、京都で待ち合わせに良く使っていた三条駅前に有る「土下座像」。高山彦九郎は勤皇思想の持ち主ということで、幕末の人物かと思っていた。
前野良沢と仲が良く、幕府の刺客から狙われる高山を前野一家が支援していたことなどの繋がりが有ったとは驚き。
これは吉村昭が気付いた事なのだろうか?



(脱線4)
"こち亀"で、両さんが杉田玄白の似顔絵を書く場面が有ったはずだが...さて、何巻だっただろう。

「帝都東京・地価の謎86」 秋庭俊 2005年2月10日 洋泉社 非常に興味を持てる。戦前の地下計画が現代の東京に与えている影響を検証する。

「平壌の水槽 ~北朝鮮 地獄の強制収容所」 姜哲煥

ポプラ社 2003年8月26日

「嗤う伊右衛門」 京極夏彦

中央公論社 1997年6月10日

「子供の領分」 吉行淳之介 1993年9月25日 集英社文庫

「十五少年漂流記の島-ニュージーランド紀行」

塩野米松/著 求龍堂 1994年8月11日

「昭和史」 半藤一利

2009年6月11日版 平凡社

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録

V.E.フランクル著、霜山徳璽訳

みすず書房

1961/03/05 初版、1971/11/5新版

有名な本だが読んだことが無かった。この本でナチスの強制収容所が世界中に知られるようになったということもあり、内容はどこかで聞いたことの有ることが多かった。なぜか駅前のホームレス立ち売りで100円で入手。

 

「新版 危険な話」
広瀬隆著

チェルノブイリ原発事故についての本。ドキュメンタリーなのだろうが、自分で調べたというより、自説に近い新聞記事だけを集めてそれをつなぎあわせて「自分は正しい」と評し、反対意見はすべて「あの人は***に嘘をついたから」「この人は利害関係者だから」と切り捨てる手法はどうかと思う。

この人の言っていることはすべて嘘と言うわけではなく、もちろん真実も含まれて入るのだが、この「危機を煽っている」だけの文章にはうんざりする。社会に訴えるならもっとうまい方法があるのではないだろうか。

「インドネシア全二十七州の旅」小松邦康

1995年1月25日版

発行:株式会社めこん

「激闘ニューギニア戦記」 ~一将校の見た地獄の戦場

著作:星野一雄

2009年2月11日 光人社

帰らなかった日本兵」 長洋弘

太平洋戦争後も、インドネシアに残留、日本に帰らなかった(帰れなかった)日本人のその後を追うルポ。幸せに過ごす人、どう見ても幸せとは言い難い人。波乱万丈の人たちの戦後を追う。
この本が書かれたのは10年前。判明しているだけで当時177人の人がまだ生きていた。
この本に出てくる人達は今はどうなっているのだろう。


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「私は大正10年(1921年)2月13日秋田県河辺郡浜田村で生まれました。子供の時から船乗りになると決めていました。 千葉の砲術学校で訓練を受けた後に「秋田丸」に乗りました。20歳でした。船長は岡田熊吉さん(千葉県出身)で、乗組員は38人でした。神奈川県の三崎港を基地にしてトラック島やサイパンでマグロを捕っていました。

そんな時、太平洋戦争が始まりました。昭和17年11月20日、船が海軍に徴用されました。乗組員はそのまま全員が軍属(軍属:戦闘を行う軍人ではなく、軍で働く者)になりました。正式には日本海軍暁部隊の軍属です。三崎港からニューギニアまで食料・弾薬・兵士を運びました。その後は日本軍の進駐したインドネシアのジャワ・スマトラの島嶼間を、食料品・油などを運びました。

昭和18年になるとアメリカ軍の爆撃がひどくなりました。海の上で見つかったら、こんな小さな船、一発でおしまいです。運が良かったのか。徴用された船で残ったのは秋田丸くらいです。終戦はシンガポール、マラッカ沖でラジオを傍受して知りましたが、誰も信じませんでした。

敗戦を実感したのは8月下旬パカンバルに連合軍の憲兵が上陸し、150人の(連合軍の)捕虜を解放したときです。連合軍の命令で、その開放された捕虜たちをシンガポールに運びました。船尾に掲げていた日本海軍旗は降ろされました。その後は秋田丸は復員船として、スマトラ各地からシンガポールの間を行き来しました。敗戦国日本の将兵はみじめでした。

私は昭和22年(1947年)、秋田丸を下りた時に国を捨てる決心をしていたのかもしれません。
秋田丸は私の人生そのものです。鳥海山、十和田、なまはげ。秋田丸には私の祖国そのものが詰まってました。

日本軍が居なくなったインドネシアでは、オランダからの独立運動が盛んに成ってました。義勇軍出身のインドネシア人に誘われてゲリラ戦を闘いました。インドネシア独立後も私はインドネシア海軍に残りました。マレーシア紛争、イリアンジャヤ奪回作戦に参加した私はインドネシア海軍が日本から購入した輸送艦アマハイラ号に乗って、船の修理のため横浜に行きました。インドネシア海軍軍人としてです。22年ぶりの帰国でした。

母はその2週間前に老衰で亡くなっていました。父は私の幼少の頃に亡くなっています。私はこの帰国の2年前に初めて手紙を書きました。「万次郎です。お許しください。内地では私は死んだものとなっていると思います。元気です。ご安心ください。日本の商船、漁船がたくさん来ています。一度私も日本に行ってみたいと思います」

私はインドネシア政府から英雄勲章をはじめ15の勲章をいただきました。しかし私の勲章は秋田丸なのです。秋田丸はイギリス軍に引き渡してから見ていません。もう一度あの白い船体を見てみたいものです。」

1970年(昭和45年)、安藤はインドネシア海軍を退役し、長い戦いは終わった。
彼は1960年(昭和35年)の夏の出来事を今でも鮮明に思い出すと言う。

「インドネシア海軍がソ連(当時)に発注した軍艦エリアン号を受取にウラジオストックに行きました。その時私はそこで、ドッグで働く多くの日本人と出会ったのです。白髪が混じりまるで老人のようでした。終始監視され自由の全く無い彼らは、日本が平和になったことすら知りませんでした。戦後15年経っているのに。彼らがその後どうなったかは私は知る由も有りません。あの時に離隊した私に比べ、戦後の祖国を知らない彼らより私は恵まれていると思いました」

~~イスマエル・タンジュン・アンドウ ~日本名:安藤万次郎
ジャカルタにて過ごす。妻と子供7人~~

秋田県の記録によれば、秋田丸は秋田県水産試験場調査船として1933年建造。東部太平洋、沿海州の漁業調査後、1944年海軍に徴用、スマトラ文政官所属漁業指導船となる。戦時下の記録は混乱のため不明。1945年スマトラ島パカンバルにおいてイギリスに没収、乗組員は捕虜として抑留後復員、とある。

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波乱万丈の人生を過ごした人が次々と紹介される。
上記の彼の歩みは特に、僕が行った場所といろいろとかぶることもあり、気になった。
ちなみに彼はかなり成功した部類に入る。悲惨な人は本当に悲惨な人生を過ごしている。

「天草の雅歌」 辻邦生
1971年・新潮社 /小説

「上海ブルース」 岡江多紀

1991年 有楽出版社

サヨナライツカ」 Sayonara, toujours pres moi

辻仁成 2001年 世界文化社

「五女夏音」 辻仁成

1998年 中央公論社

 「瀬島龍三-参謀の昭和史」 保阪正康

1991年 文春文庫

「西域伝-大唐三蔵物語」 伴野朗

1990年 集英社文庫

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