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楓涇(feng jing) からバスで上海市内に戻り、夕食は黄河路美食街に、5人で向かう。
店は直接その美食街に行ってから決めることにする。

一通り歩いて良さげな店に。店構えで選ぶ。

「苔聖園酒家」
エレベータに乗って上のフロアに。上に上がれば上がるほどレベルは上がると信じて。

  • サラダ  (中国では珍しい、が、いたって普通のサラダ)
  • 仏跳墻 (仏さまも飛べあがるほど美味しいという意。あわび、ふかひれなどの入った贅沢なスープ。
  • 豚肉の煮たもの
  • 上海蟹
  • 小龍包 

この日のお目当ては上海蟹、みんな黙々と食べる。ミソが美味しいのが分かった。
隠れメインは仏跳墻。スープだが凝っている。中国人が喜ぶ食材が目白押し、美味しくいただく。美味しんぼで紹介されていた。

ビールなどを含めて一人当たり250元(3000円)くらい。蟹と仏跳墻を他のメニューに変えればおそらくもっと低価格だが、この値段で美味しいものを、これだけ食べれるのはありがたい。

【苔聖園酒家(黄河店)】
上海市黄浦区黄河路50号
021-6375-0022
*地下鉄「人民広場」駅8番出口から, 国際飯店の右側の道(黄河路美食街)を入ってすぐ。
夕食は新天地で。
池さんとskyさん、そして万博の日本館で働く鈴木さん(仮名)と。

店は鈴木さんの紹介で「采蝶軒 ZEN」。広東料理。
欧米など海外(日本でも大丸東京店にカフェが)に店が有るそうだ。

  • 采蝶軒 ZEN 新天地店 (シャンハイナビ)
    何かと名前をよく聞くこちらのお店、人気なのは新天地にあるオシャレで美味しい広東料理だから?と思っていたんですが、実は理由はそれだけではないんです。1980年に前身となる・・・
  • 蝶軒 ZEN 新天地店 (エクスプロア上海
    「国際美食案内」に世界十大レストランと評判された国際餐飲集団公司―采蝶軒が中国大陸で構えた初めての支店です。店に入ると、白い壁、黒い床、ハスの花型の灯りなど仏教的なデザインでシックで落ち着いた感じの店内・・・

4人も居れば一通り頼める。中華はやはり人数が居ないと。
携帯電話のカメラで写真映りが今一なので、写真は上記のリンク先の紹介ページを。
どれも美味しくいただく。
海老が大きくプリプリ、東波肉もかなり食べる。
5枚目のブロッコリーの料理のソースはカニ味噌をつかったもの。

ビールなどを含めて一人当たり160元(2000円)くらい。
瑞金賓館がイギリス様式でなかなか良い雰囲気だったことも有り、次もまた旧邸宅ホテルに行くことに。

次の「東湖賓館」は同じ時代だが、イギリス人ではなく中国人の建てたもの。そしてその中国人というのは上海マフィアのトップ杜月笙と聞けば、もう行くしかない。全く裏社会とは関係のない一市民が行商人からスタートしてマフィアのボスにまでのし上がるには本人の才覚・力だけでなく、運、そしてその時の歴史のいたずらが無くてはならないだろう。

イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・日本などの列強諸国、そして中国国内の各派閥、共産党と国民党だけではない、たくさんの裏組織が上海の中で勢力争いをしている中で生き延びるには、その各国ともちろん中国国内事情に通じていなければならない。

その彼の邸宅だ。期待をしてタクシーで向かった。


杜月笙は、上海事変後に日本軍の勢力に押されて、香港に脱出する。この建物も交通銀行(現在の中国五大銀行の一つ)となる。太平洋戦争中はアメリカ領事館として使われた。

戦争後に共産党が上海に入ってからは上海市政府の招待所となる。そして1982年、一般人でも泊まれるホテルとして開放された。

ホテルは一般道路を挟んで二つに分かれている。まずは本館の方に向かう。ちょうどリムジンが誰かを下ろして












 

 



ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)」とは、日中戦争の際に日本軍が上海に作った特務組織。対立する中国国民党・重慶政府打破のためのスパイ組織なのだが、構成員は中国人(ほぼ全員が戦後、漢奸として処刑された)。日本軍から資金を得て、抗日運動員を次々と暗殺した。

対立する中国国民党のスパイ組織「藍衣社」「CC団」との抗争は日常茶飯事。一応"闇の組織"なのだが、日本陸軍の後ろ盾もあり市内で銃撃戦も遠慮せずに上海市内でかなり派手に暴れまくったこともあり、とばっちりを受けた市民の犠牲者も数知れず←"多い"という意味ではなく、闇に葬られるために資料がないという意味)。当時の上海市民は係わり合いを持たないようにしていたという。

そもそも組織名である「ジェスフィールド76号」というのはそこに本拠地があったからで、所在地が名前になるなんて、誰でも知っているという時点で"裏組織"とは言えないのでは...とも思う。

この組織が一躍有名になったのは映画「ラストコーション」が公開されたからだ。中国の一少女が愛国に目覚め、この組織のトップを暗殺するために二重スパイとして潜り込むというストーリーなのだが、これがこのジェスフィールド76号と、その指揮者である丁黙邨がモデルと思われるからだ。

ラストコーション以外にも「夢顔さんによろしく」などの小説やルポに、抗日運動や日中和平運動を妨害する組織としてよく登場する。第二次世界大戦中も各国の租界があった為に、日本人・中国人だけではなく欧米各国、ユダヤ人が混住していた上海の裏の顔として、これまで気になっていた。
いったいどんな所か観てみたいではないか。

極司非爾路76号 と番地まで分かっているのだから簡単に行けるかと思いきや、解放後に通りの名前は改称されていた。まぁこんな名前が今の中国に有るわけが無い、当然だ。
さてどうするべきか...と考えるまでも無く、ネットで検索したらすぐに見つかった。現在は「万航渡路」という名前になっていた。


空港から地下鉄で1時間以上、地下鉄の「静安寺」駅で下車。北西に向かっててくてく歩く。万博期間中ともあって、街中いたるところにボランティアの腕章をつけた人が居る。交差点で「万航渡路435号(ジェスフィールド76号)はどこ?」とでも聞くと、みな我先に教えてくれる。そこに何が有るのか知っている人は居なかったが...
着いてみると、いたって普通の雑居ビル。

1階はレストラン。食事の時間帯ではないので営業はしていない。

店の名前は「紅い土地」。なんという皮肉だ。ここは戦争中は日本協力者、漢奸の本拠地で共産党(赤)の敵だったのに。

横に門が有ったので入ってみる。美術学校と書いてあるのだが...

門番が居る。全く言葉が通じないのだが「入りたいのだ」と伝えると「まぁよう分からんが入って良いよ」ということ(たぶん)なので、遠慮せずに中に。

中は明るい学校...放課後で生徒が遊んでいる。

ここが「中に連れ込まれたらいけて出られることは無いと」言われた暗殺組織の本拠地だったことをみんな知っているのだろうか。

あまりにも何も観るべきものが無く落胆して外に出る。

現在の万航渡路。

租界時代の建物も有り、落ち着いた地域。

一つ目の訪問地は失敗だった。まぁこれもまた経験、次の箇所に。

 

 

 

 

次は日本軍とは全く関係なく、イギリス租界の中心の曰有る洋館にバスで移動。
目的地にちょうどよいバス停にうまく行けず、瑞金南路のバス停から1kmほど瑞金路を北上。並木の有る雰囲気の良い通りだ。

小さな古い洋館や最近建替えられたような雑居ビル、大きな病院(瑞金医院)を過ぎると左側に長い壁。
目指す「瑞金賓館」はすぐ分かった。中国にありがちな下手な装飾などない、立派な洋館だ。

【瑞金賓館の歴史】
上海開港から20年、上海に来たイギリス人モリスは不動産投資で大きな利益を上げ、邸宅を構える(現在の1号館)。イギリス様式の広大な庭園、建物内装は彫刻、シャンデリアなどには金を惜しまず豪華な屋敷となる。この周りにも次々と新しい建物を建て増している(現在の2号館)。

上海の情勢は風雲急をとげ、モリスはいくつかの建物を三井に売却する。「三井花園」と呼ばれ、社交界の中心として使用された(4号館など)。
第二次世界大戦中は魑魅魍魎がひしめく世界となった(と思う、たぶん)。

日本が戦争に負けて、日本人が撤退すると国民党がすぐに接収する。首道者たちの上海での住まいとして使用された。外国賓客をもてなすための建物として使用され、毎晩パーティが行われた。

国民党が撤退した後はもちろん共産党が進出。文化大革命中はいったいどうなったのか想像も付かないのだが、こうして残っているということは、ここは共産党のトップが使う建物として別格の扱いだったのだろう。

そして対外開放の時代、今はホテルとして民間に開放されている。



で、宿泊者でもないのだが、興味本位でホテル探索に入った。

ロビーのカフェでチーズケーキと紅茶で一服。

味やサービスは残念ながら...親切で愛想は良いのだが、高級ホテルといったイメージのサービスとは言えず...客も明らかに時間つぶしの上級公務員?それも制服着て堂々と...

別館のレストランに行ったら違うのかな。

実際に利用した人のブログが参考になると思う。
安宿も、最近出来た外資系の高級ホテルも良いけれど、こういうクラシックホテルに泊まりたい。

万博期間中でも1室18000円くらいです。

この建物の歴史を考えれば無理な金額ではないのでは。

 

瑞金賓館のガーデンに囲まれたインド料理店は、他にはないカジュアル&リラックス感が楽しめる穴場的レストラン

 

http://bjhimatsubushi.blog29.fc2.com/blog-entry-82.html


日本人で初めて世界一周をしたのは、江戸時代の14歳の男の子だった

シンガポールではI君に、日本人墓地に連れて行ってもらった。僕のリクエストに応えてくれたもので、彼らも日本人墓地に行くのは初めてだという。本人墓地では、興奮しまくりだった。 I君達は、僕が喜んで歩きまわっている様子を見ることの方が面白かったようだが...

ほとんどの墓は朽ち果てているのだが、石で出来た何人かの墓は墓名文を読むことが出来る。彼らの数奇な運命を読んでいると、時間はどんどん過ぎていくのだった...

特に興味を持ったのが、シンガポール初の日本人、「音吉(オトキチ)」だ。 帰国後、彼のことを調べてみるといろいろ驚かされた。 彼の研究は最近始まったばかりだ。 かなりすごい話だと思うのだが...どれくらい知られているのだろう??

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尾張国(愛知県知多郡)に住む音吉が、海に出たのは14歳のときだった。 米や尾張特産の陶磁器を、名古屋から江戸に運ぶ船の下っ端の乗組員としてだ。 宝順丸という1500石積みの船で長さは15mほどだったという。 天保3年(1832年)11月3日出航という記録が残っている。

だが宝順丸は、静岡の南、遠州灘で嵐に遭遇する。梶が流されてしまい、船を操舵することが出来なってしまった。もうこうなると流れに任せるしかない。航路を外れ、黒潮にのってしまい、太平洋に流されたのだ。

船の乗組員は14人だったという。幸か不幸か、江戸に運ぶ年貢米が船に有ったおかげで米には困らなかった。効率は悪いがなんと蒸留装置もあったという。魚を採り、雨水を集め、航海は続いた。だが、野菜が食べれないためビタミンは不足する。乗組員は次々と倒れ、若い3人-久吉(17)、音吉(14)、岩吉(28)ーだけになってしまった。

1年以上も漂流をし、月日も分からなくなったある日、3人は陸地を発見する。なんと太平洋を横断してしまい、アメリカまでたどり着いたのだった。たどり着いた場所は"フラッター岬"(ネットで探したが詳細な場所分からず)、現在のシアトルの近くらしい。 そこでアメリカの先住民族-インディアン-マカ族に発見される。 言葉も通じず、双方とも国際知識を持ち合わせていない。お互いに何者なのかさっぱり分からない。マカ族の襲撃に遭い、力の成り行きで3人は奴隷となってしまったのだった。

その集落に偶然やってきたのがイギリスの「ハドソン湾会社」の開拓船だった。
新大陸アメリカの北方でビーバーの毛皮を集め、ヨーロッパに運び莫大な利益をあげていたのだ。(現在も「ハドソン湾会社」は存在し、カナダ最大の小売業チェーンとなっている)

その船の船長~マクドネル船長は、謎の3人を見てどう思ったのだろうか。彼は、3人をマカ族から買取り、船に乗せバンクーバーに連れて行った。バンクーバーでこの3人はアジア~東の果ての国々~から流されてきたというのは判明する。 バンクーバーの知識人、ジョン・マクラフィン博士(オレゴンの父と呼ばれているそうだ)の助言により、とりあえず本国(イングランド)に連れて行こうということになる。イギリス軍艦艇に乗せられ、バンクーバーからハワイ、ペルー、チリを経てホーン岬を回り、長い航海を経てロンドンに向かう。
3人はロンドンを訪問した初めての日本人になった。(スペインやイタリアには天正少年使節が300年前訪れている)

当時は日本は鎖国している。日本との貿易はオランダが独占している。イギリスとしては、この3人をきっかけにして日本との交易に乗り出したい。どうやらアメリカも太平洋を越えて日本を狙っているようだ。 3人は到着後すぐマカオに運ばれる。ロンドンでの滞在はわずか2週間だった。

"general palmer号"はロンドンから象牙海岸、南アフリカ、マダガスカル沖、イエメン沖、インド沖を越え、シンガポールに寄った後、6ヶ月の航海を経て、マカオに到着する。アヘン戦争前で香港はまだイギリスのものとはなっていない。マカオはイギリスとは仲の悪いポルトガルの領土だが、日本へ最も近い"西洋"だ。

まだ鎖国の時代、日本に行けるのはわずかな数のオランダ人と清国人だけ(と言っても長崎の出島だけだが)。日本人は外国に行くことは出来ない。マカオの人達は初めて見る日本人、3人は人気者となった。

せっかくマカオまで来たものの日本に向かうことは出来ない。3人はマカオで放り出されるのだが、ここでドイツ人ギュツラフと出会う。 この頃3人は、2年間イギリス人と接していたことも有り、片言の英語を話せるようになっていた。特に音吉は一番若かったことも有り英語の飲みこみが早く、ギュツラフに日本語を教え、そこで聖書の翻訳に挑戦する。「ヨハネ福音書」は日本語で書かれた初の聖書となる。
(約20年後、一人の宣教師がその聖書を持って日本へ来る。彼が作ったアルファベット表記法がヘボン式ローマ字だ)

マカオに住み2年目、3人はアメリカ人商人キングと出会う。日本に彼らを連れて行けば、日本との交易も出来るだろうとキングは考え、同じ境遇の鹿児島の漁民(庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松。彼らは太平洋上で保護されマカオに連れて来られた)と一緒に、日本に向け船(モリソン号)をすすめたのだった。

彼らはまず4人の故郷、鹿児島に向かうのだが、薩摩藩から砲撃を受けてしまう。突如現れた異国船に日本は大騒ぎになる。鹿児島が無理なら江戸に行こうとするが、浦賀でも幕府軍からの砲撃を受ける。日本上陸をあきらめた彼らはまたマカオに戻ったのだった。

この事件(「モリソン号事件」と後日いわれるようになる)は、日本開国に向かう大きな流れを産み出すのだが、音吉は知る由も無い...

鎖国している日本への帰国は無理だと考えた音吉は、一人でアメリカに向かう。自分は英語を話せるのだから、これからはアメリカ人として生きていこうと決意する。 音吉20歳。この部分がいまいち信じられないのだが...すごい行動力だ。

また太平洋を越えてアメリカに向かい、名前も音吉からオトソンに改名する...
一民間人として生活しようと彼は考えたのかもしれないが、しかしこんな貴重な人材をアメリカが放って置くはずは無かった。 またまた太平洋を越えて上海に連れて行かれ、デント商会という企業に入ることになる。 アヘン戦争が終わり西洋諸国が清に雪崩れ込んでいた。「英語が話せて漢字が読める東洋人」として上海で6年間働く。音吉25歳。

アメリカ人の民間人...になっていたオトソン(音吉31歳)は、そこでまたイギリス軍に拾われる。イギリス軍艦マリナー号乗組員として日本に向かい、ほんの一瞬だが念願の祖国に上陸、浦賀に入る。

5年後、イギリス軍スターリング艦隊で長崎に訪れた際はイギリス通訳「ジョン・マシュー・オトソン」とサインをしている(36歳)。

このとき、対応したのは長崎奉行、水野忠徳。スターリングの目的は、クリミヤ戦争でイギリスと敵対するロシアへの牽制だったのだが、水野の誤解によって、思いもかけず日英和親条約が結ばれることとなる。 

この2回の日本訪問を経ても日本はまだ開国しない。日本は幕末の混乱状態になっている。
失望した音吉は上海で、マレー人と結婚する。彼女はどうしてマレーから上海に来たのだろうか...

その後2人はマカオを経て、彼女の故郷であるシンガポールに向かう。シンガポールに定住することを決意し、馬の口入業(つまり輸送業者だ)を開業、独立する。1862年、オトソン41歳。

翌年、幕府はフランスに使節団(文久遣欧使節団)を送る。開国に向けて、日本中の精鋭をヨーロッパに向かわせたのだ。彼らは途中でシンガポールに寄ったのだが、ここで欧米についてのレクチャーを受ける。日本語を話す"オトソン"にだ。

使節団に居た若者、福沢諭吉は世界の広さに目覚める。彼が後日、慶応義塾を開き、日本を代表する教育者となることを、音吉(オトソン)は想像しただろうか...

音吉のシンガポール生活は7年間だった。そんなに長くない。 シンガポールで49歳で病死。南国の気候は彼には向かなかったようだ。 彼は息子に向かい遺言を残した。「何としても日本に戻れ」と。
彼の息子ジョン・W・オトソンは明治12年、横浜に向かう。日本に入籍し「山本音吉」と名乗った。

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「音吉」の墓は今、シンガポールの郊外、住宅地の真ん中にある。
彼の墓がシンガポールに今も残っているということが"発見された"のは、なんと2004年。最近の話なのだ。

彼の墓は発掘されて、骨の一部が日本に運ばれ、故郷の愛知県美浜町の墓に入った。
2005年2月20日。彼は173年ぶりにフルサトに戻ったのだった

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http://www.jmottoson.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Otokichi
http://www.jmottoson.com/Nikkei.html

江戸時代の田舎に住む一人の男の子が、ある日いきなり世界に放り出される。
太平洋を漂流し、インディアンの奴隷になり、イギリス軍に入り、世界一周をして、
語学を習得し、日本を開国に導き(?)、シンガポールで商売をはじめる。
彼の行動力...だけでなく、あきらめない強さに驚かされる。

でも彼は、彼が世界を動かしたことを、
気付いていたのだろうか...

(この話、映画化ぐらいできそうだと思うんだけど、どうでしょう???)
空港からのバスから、延安東路で降りた。夜10時半。
中心部に行けばまぁ宿くらい何とかなるだろうと思ったが...無い。
人通りも多くない。もっと中心地へと思い、人民広場まで行くも7000円くらいのホテルばかり。妥協して(?)それでも良いのだが、どうせ寝るだけ、安宿でよい。歩き続けて1時間、南京路までやってきた。途中で何か食事でもと思っていたが、手ごろな店が無い。そもそもレストランが無い。上海ってこんなんだっけ?
南京路で「飯店」(ホテル)の文字を見つけたのは日が変わろうとしていた。

1泊200元。トイレ・シャワー付。宿泊者は5人ほど。壁が薄いので音が筒抜け。夕食はマクドナルドのセット。
朝、外灘を散歩。観光客は減った。数年前の人ごみで歩きにくかった記憶しかないのだが。
朝食は浦江飯店で食べようと決めていた。昔は(お金が無くて)食べれなかったバイキングへ。



蘇州河の外白渡橋、あの鉄橋はなんと工事中。
とうとう取り壊されるのかと思ったが保存改装工事とのことで安心する。
歴史の生き証人。
上海に行った人なら、100年前から老若男女ほぼみんなと通ったことがあるだろう。
この橋より北は日本租界だった。南はイギリス、フランス。
魑魅魍魎のうごめく魔都。

迂回路を通って浦江飯店、噂には聞いていたが立派になっている。
今はもう安宿ではない。いや昔から「安いドミトりー」は有ったが、決して安宿ではなかったはずなのだが...
今は1泊20000円くらい?
朝食バイキングは10時までであと10分しかない。だがせっかくだから入ろうとするも、180元と聞き断念。
スタッフにホールの写真を撮ってよいか聞くと、「私に見つからないように撮るように」という答え。あぁこんな受け答え、人民中国だった時代では考えられない。












懐かしいホテル内を散策。
3年前リニューアルされて、開業当時の雰囲気に戻っている。
とても日本では江戸時代だったころに建てられたものとは思えない。
ここに泊まった世界の著名人達の写真が廊下に掲げられている。
10年前は日本の貧乏旅行者達が600円で泊まっていたのか...なんて勿体無い。

廊下を歩くと記憶がよみがえる。
そうそうこの渡り廊下を渡ると、多人房(ドミトリー)の部屋。
今はレトロおしゃれなツインになっていた。

売店で絵葉書を売っている。[上海]の絵葉書は値引いてくれるが、[浦江飯店]のはまけてくれない。
なんでこれをそんなに欲しいのかと聞かれ「10年前に泊まったここのファンだ」と応えると、「あぁドミトリーね」と言われる(笑)。ドミトリーに泊まったとは言ってないのに...
朝食をとろうと隣の上海大厦に行くも、ここもまともなレストランは11時から。フロントで「近くに良いレストランは無いか」と尋ねると、「すぐ近くにハイアットが出来たばかりだ、そこは良いだろう」とのことで勇んで赴く。

...着いた所には高層ビル。番地は合っているがホテルの表記はまったく無い(中国では施設名を書いた看板が建物の概観を台無しにしていることが多い)。不思議に思いながらも中に入るも大きなフロアに人影はまばら。
綺麗なお姉さんに「あのーここ、ハイアットっすよね?」「ええ、もちろん」
「あぁ良かった、何か食べたいのだけど」「はい、何が宜しいでしょうか?」
「え?どんなのが有るの?」「フレンチとカントン、それにイタリアンのカフェなど。」
「うーん、河が望めると聞いたんだけど」「それなら一番上にフレンチのレストランが」
「もう昼だけど、一人で入ってコースでも良い?」「えぇもちろん、お望みのものを」
...頭に危険信号が灯った。分相応だ。ありがとうと言って外に出た。

結局、朝食兼昼食は浦江飯店のバー。
ローストダックをオレンジソースで。68元(800円弱)。
うん、おいしい。贅沢すぎないこれくらいのものが身分相応だ(笑)。
絵葉書を書いていたらコーヒーをサービスしてくれた。

のんびりしていたら飛行機の出発時刻まであと1時間半!!
こんな時に限ってタクシーが捕まらない。渋滞を避けトンネルではなく橋を渡ってもらいリニアの龍陽路駅に。

上海のリニアモーターカーに乗るのは初めて。さすが時速431km。7分で空港。
間に合った...日本でも早く実用化してもらいたい。

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