255マカオの最近のブログ記事

清濁併せ呑む街、マカオ。ポルトガルの海外領土として500年。中国の行政地域となったとはいえ、中国本土とは違う文化が生きている。最近この10年の急激な開発、カジノの人気ぶり、大陸人の流入での雰囲気の変化は憂えているのだが...

キリスト教(カトリック、プロテスタント)、仏教、道教、船乗りが進行する各国土着の宗教、様々な宗教の信徒が住む街。 その反対に、世俗的な人も世界中から集う街。
ニューヨークがミックスジュース(人種の個性が混ざる街)ではなくサラダボール(各人種の個性が共存する街)に例えられるようになったのは今から15年位前から。マカオはそれよりも以前からサラダボールの状態だった。

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シンガポールで"音吉"の墓を見てから1ヶ月。「海嶺」を読み、音吉が数年間滞在したマカオについて関心が深まる。太平洋を漂流しイギリスを経由しマカオにたどり着いた彼らはマカオで、イギリス商務省役人でキリスト教伝道師でもあるギュツラフのの保護を受ける。
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国籍や信仰宗教によらず誰でも暮らせる街マカオ。
この混沌とした街の魅力に以前から自分は惹かれてきた。

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マカオには各国から人が集った。大航海時代のポルトガル人だけではない。スペイン人、オランダ人、香港がイギリスの植民地となるまでは、イギリスやアメリカ人。軍人、商人、金持ちから奴隷まで。朱印船貿易時代は多くの日本人も訪れた。

本人の意思に因らず訪れた多くの亡命者。迫害を受けて逃げてきた各地の難民。江戸時代には鎖国で追われた日本人、政変で追われてきた明・清国人、越南(ベトナム)人。

第二次世界大戦時代の、共産党・国民党・日本軍・イギリス人・アメリカ人の不思議な共存生活。(ポルトガルは中立国だったので、マカオは大戦中も中立地帯だった。実際は小競合いは頻発し、各国スパイが暗躍した)

文化大革命の騒乱。共産中国と資本主義国ポルトガルとの対立。 インドシナ・ベトナム戦争時の思想対立。インドネシア騒乱と、東チモール難民の受入れ(東チモールもポルトガル領だった)。

タイパ島と対岸の中国との間は泳いで渡れる距離で、昔は不法入国者も居たようだが、中国の生活水準が上がったこともあり中国難民は今は居ない様だ。海岸の警備兵も今は居ない。

だが、現在もどんな組織に属している者も受け入れる不思議な街。
後継者争いに負けた(?)金正男もマカオで家族と暮らしている。(北朝鮮特務もマカオではさすがに手を出すことができないようだ) 


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【マカオとの関わり】
僕が初めて海外旅行に行ったのが香港とマカオ。高校の修学旅行でだ。
アジア各国6コースの中から一つを選ぶと言うものだったが、なぜそのコースを選んだのかは分からない。しかしそれまで海外に行くと思ったことの無い田舎の高校生にとって、これは大きな転機だった。

その旅行ではマカオには香港から日帰りで訪れただけだ。餌の模型を目がけて走るドッグレース場の犬のお間抜けぶり(高校生をこんな所に行かせるとは)、昼食のちゃちい洋風料理(今思い返せば、あれはポルトガル料理ではない)...と、たいした記憶は無いのだがこの街の魅力に気付いてしまったのは確かだ。バイト代を貯めて、4ヵ月後の春休みに再訪したのだから。

それから10年。ポルトガル人の後を追ってリスボンやマラッカ、シンガポール、九州(平戸/五島/長崎/島原/天草/鹿児島/種子島/沖縄各地)を何度も旅をしたが、言葉では表現できないがいつも奥深さを感じさせる。
中国と西洋の混じった"中西"な不思議な街、マカオ(街中には[中西美食][中西装飾]などの看板をみかける)。まだ目が離せない。

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【もっと知りたい】
歴史をざっと知りたいのなら普通はモンテの丘に有る博物館(ポルトガル軍の要塞が有った)に行くのだろうが、もっと深く本当に調査したいのなら民政総署の2階にある文書館と、聖オーガスティン教会の傍のロバート・ホートン図書館。ポルトガル統治下の数百年間の資料が誰でも閲覧できる。民政総署(海外領行政府)には本当に貴重っぽい書類が誰でも閲覧できる。言葉(ポルトガル語か、せめて英語でも)が分かれば絶対楽しいはずなのだが...

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【マカオでの食事】
タイパ島官也街にはお手頃価格のレストランが多いのだが、その中の「サントス(山度士葡式餐廳)」。残留ポルトガル人のサントスさんの経営。ポルトガルの素朴な料理多い。味も良い。ポルトガル人がテレビを観てサッカーの応援をしていたりする。

セナド広場から徒歩10分ほどの[]は大航海時代の産物マカオ料理。アフリカや中近東のスパイスと、中華の食材のmix。定番はカレークラブ、アフリカンチキンなど。

ポルトガル軍の将校クラブだった「ミリタリークラブ(葡萄牙陸軍餐庁)」ではポルトガル料理とワイン。お手頃メニューから豪華コースまで。団体ツアーでも使われるが、セットメニューではなくアラカルトで頼むとちゃんとしたのをつくってくれる。料理、ワインとも種類多い。

サンズやリスボア、ベネチアンなどのカジノのレストランは意外と庶民的な値段だが、金さえ出せばすごい料理も。広東料理がハズレが無いような気もする。いやそんなに場数踏んでないけど。(でも、上の3つ以外のカジノのレストランは全然イケテない。昔はハイアットの1階奥にあったレストラン[フラミンゴ]が良かったのに!本当に)

以前、リスボアでパーティを企画したことが(実現しなかったが)有ったが値段が天井知らずですごかった。豚1匹丸焼きして美味しい所だけ食べるとか(笑)。広東人金持ちってステキ。


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【マカオの観光名所】
セントポール教会の跡にツアーだと連れて行かれるのだが、観光地化されていて面白くない。これだけを観てマカオを後にすれば、マカオのイメージは良くないものとして残るだろう。
教会もギア教会(世界遺産だが)は素朴で歴史もあるのだが、今ひとつ。近くにはポルトガル軍の要塞跡が有る。

廟、道教寺院も北の方に何件か有り趣は有るが、自分は一度行けば十分。

それよりも普通に、街を散策するほうが楽しい。
福隆新街には真っ赤な中国風の置屋(昔の歓楽風俗街)が並ぶ。
中国との国境付近には元不法入国者の雑多なマンション(見ても面白く無いが)。
廟の近くの広東人達の昔の暮らし(共産中国では廃れてしまった文化)。
半島南部の超高級住宅ヴィラ街(誰が住んでるんだか)。
路環村の古い南国風?の民家。

マカオには30もの世界遺産に指定された建物がある。
この狭い土地にこれだけ密集するのはローマとマカオだけだろう。見所は多いのだがそれよりも、マーガレットのエッグタルトか、義順のプリンでも買って、カモンエスの広場でのんびり時間を過ごすひと時(カジノで熱くなった頭を冷やして)が良い。


【泊まるところ】
マカオにはバックパッカーが泊まるようなゲストハウスやYHは無い(有るのかもしれないが必要無い)。中国の大都市に有るようなあまり面白みの無いホテルで数千円も有れば泊まれる(ホテルや予約サイト、日本で申込ではなく、現地の旅行会社を通すと安い)。

最近出来た欧米資本のカジノホテル(ベネチアンとか)は設備サービスともに良いと思われる(まだ僕は泊まったこと無い)。 これまでマンダリンオリエンタルが高級と言われていたが、自分の感想としては、値段の割りにたいしたこと無いイメージ。

特殊なホテルとして挙げるなら、マカオ半島の南端に有るポウサタ・デ・サンチアゴ(聖地牙哥酒店)。300年前のポルトガル軍の要塞を改造したホテル。クラシックな内装で人気。テラスで海を眺めて大航海時代に思いを馳せながらお茶するだけでも良いが、宿泊を薦める。全室スィート。12部屋のみ、早めの予約を。チャペルは昔からある本物なのだがしょぼい。


【マカオに住む人】
実際に住んでいるのはほとんどが広東人。何百年も住む人も、数十年前に不法入国してきた人もどちらも多い。
昼時には昼ごはんを食べに家に帰る、制服を着た学生をたくさん見かけるだろう。みな真面目に見える。カジノの制服を着たディーラー達の出勤風景もお馴染みだが、みな真面目そうだ。
カジノや歓楽街が住宅地と密接しているのは教育に悪いのでは無いかと考えるのだが、そうでも無いようだ。反面教師として捉えているのだろうか。「外国人や大陸人のようにカジノにはまると失敗するのよ!真面目にカジノで働いてあいつらからがっぽりせしめるのよ!」みたいな。

タイパ島にマカオ大学が有る。歴史は浅いが、伝統的に豊かな中国人は子供の教育には力を入れる。欧米に留学する人も多いのだろう。

ザビエル教会で、父親がポルトガル人と中国人とのハーフで、母親がアメリカン人という女の子とここで出会った。ハワイ大学で神学を学び、生まれた街マカオに戻ってきたという。こういうのがマカオっぽくて良い。


【おまけ】
3D-MACAU 
日本人で初めて世界一周をしたのは、江戸時代の14歳の男の子だった

シンガポールではI君に、日本人墓地に連れて行ってもらった。僕のリクエストに応えてくれたもので、彼らも日本人墓地に行くのは初めてだという。本人墓地では、興奮しまくりだった。 I君達は、僕が喜んで歩きまわっている様子を見ることの方が面白かったようだが...

ほとんどの墓は朽ち果てているのだが、石で出来た何人かの墓は墓名文を読むことが出来る。彼らの数奇な運命を読んでいると、時間はどんどん過ぎていくのだった...

特に興味を持ったのが、シンガポール初の日本人、「音吉(オトキチ)」だ。 帰国後、彼のことを調べてみるといろいろ驚かされた。 彼の研究は最近始まったばかりだ。 かなりすごい話だと思うのだが...どれくらい知られているのだろう??

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尾張国(愛知県知多郡)に住む音吉が、海に出たのは14歳のときだった。 米や尾張特産の陶磁器を、名古屋から江戸に運ぶ船の下っ端の乗組員としてだ。 宝順丸という1500石積みの船で長さは15mほどだったという。 天保3年(1832年)11月3日出航という記録が残っている。

だが宝順丸は、静岡の南、遠州灘で嵐に遭遇する。梶が流されてしまい、船を操舵することが出来なってしまった。もうこうなると流れに任せるしかない。航路を外れ、黒潮にのってしまい、太平洋に流されたのだ。

船の乗組員は14人だったという。幸か不幸か、江戸に運ぶ年貢米が船に有ったおかげで米には困らなかった。効率は悪いがなんと蒸留装置もあったという。魚を採り、雨水を集め、航海は続いた。だが、野菜が食べれないためビタミンは不足する。乗組員は次々と倒れ、若い3人-久吉(17)、音吉(14)、岩吉(28)ーだけになってしまった。

1年以上も漂流をし、月日も分からなくなったある日、3人は陸地を発見する。なんと太平洋を横断してしまい、アメリカまでたどり着いたのだった。たどり着いた場所は"フラッター岬"(ネットで探したが詳細な場所分からず)、現在のシアトルの近くらしい。 そこでアメリカの先住民族-インディアン-マカ族に発見される。 言葉も通じず、双方とも国際知識を持ち合わせていない。お互いに何者なのかさっぱり分からない。マカ族の襲撃に遭い、力の成り行きで3人は奴隷となってしまったのだった。

その集落に偶然やってきたのがイギリスの「ハドソン湾会社」の開拓船だった。
新大陸アメリカの北方でビーバーの毛皮を集め、ヨーロッパに運び莫大な利益をあげていたのだ。(現在も「ハドソン湾会社」は存在し、カナダ最大の小売業チェーンとなっている)

その船の船長~マクドネル船長は、謎の3人を見てどう思ったのだろうか。彼は、3人をマカ族から買取り、船に乗せバンクーバーに連れて行った。バンクーバーでこの3人はアジア~東の果ての国々~から流されてきたというのは判明する。 バンクーバーの知識人、ジョン・マクラフィン博士(オレゴンの父と呼ばれているそうだ)の助言により、とりあえず本国(イングランド)に連れて行こうということになる。イギリス軍艦艇に乗せられ、バンクーバーからハワイ、ペルー、チリを経てホーン岬を回り、長い航海を経てロンドンに向かう。
3人はロンドンを訪問した初めての日本人になった。(スペインやイタリアには天正少年使節が300年前訪れている)

当時は日本は鎖国している。日本との貿易はオランダが独占している。イギリスとしては、この3人をきっかけにして日本との交易に乗り出したい。どうやらアメリカも太平洋を越えて日本を狙っているようだ。 3人は到着後すぐマカオに運ばれる。ロンドンでの滞在はわずか2週間だった。

"general palmer号"はロンドンから象牙海岸、南アフリカ、マダガスカル沖、イエメン沖、インド沖を越え、シンガポールに寄った後、6ヶ月の航海を経て、マカオに到着する。アヘン戦争前で香港はまだイギリスのものとはなっていない。マカオはイギリスとは仲の悪いポルトガルの領土だが、日本へ最も近い"西洋"だ。

まだ鎖国の時代、日本に行けるのはわずかな数のオランダ人と清国人だけ(と言っても長崎の出島だけだが)。日本人は外国に行くことは出来ない。マカオの人達は初めて見る日本人、3人は人気者となった。

せっかくマカオまで来たものの日本に向かうことは出来ない。3人はマカオで放り出されるのだが、ここでドイツ人ギュツラフと出会う。 この頃3人は、2年間イギリス人と接していたことも有り、片言の英語を話せるようになっていた。特に音吉は一番若かったことも有り英語の飲みこみが早く、ギュツラフに日本語を教え、そこで聖書の翻訳に挑戦する。「ヨハネ福音書」は日本語で書かれた初の聖書となる。
(約20年後、一人の宣教師がその聖書を持って日本へ来る。彼が作ったアルファベット表記法がヘボン式ローマ字だ)

マカオに住み2年目、3人はアメリカ人商人キングと出会う。日本に彼らを連れて行けば、日本との交易も出来るだろうとキングは考え、同じ境遇の鹿児島の漁民(庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松。彼らは太平洋上で保護されマカオに連れて来られた)と一緒に、日本に向け船(モリソン号)をすすめたのだった。

彼らはまず4人の故郷、鹿児島に向かうのだが、薩摩藩から砲撃を受けてしまう。突如現れた異国船に日本は大騒ぎになる。鹿児島が無理なら江戸に行こうとするが、浦賀でも幕府軍からの砲撃を受ける。日本上陸をあきらめた彼らはまたマカオに戻ったのだった。

この事件(「モリソン号事件」と後日いわれるようになる)は、日本開国に向かう大きな流れを産み出すのだが、音吉は知る由も無い...

鎖国している日本への帰国は無理だと考えた音吉は、一人でアメリカに向かう。自分は英語を話せるのだから、これからはアメリカ人として生きていこうと決意する。 音吉20歳。この部分がいまいち信じられないのだが...すごい行動力だ。

また太平洋を越えてアメリカに向かい、名前も音吉からオトソンに改名する...
一民間人として生活しようと彼は考えたのかもしれないが、しかしこんな貴重な人材をアメリカが放って置くはずは無かった。 またまた太平洋を越えて上海に連れて行かれ、デント商会という企業に入ることになる。 アヘン戦争が終わり西洋諸国が清に雪崩れ込んでいた。「英語が話せて漢字が読める東洋人」として上海で6年間働く。音吉25歳。

アメリカ人の民間人...になっていたオトソン(音吉31歳)は、そこでまたイギリス軍に拾われる。イギリス軍艦マリナー号乗組員として日本に向かい、ほんの一瞬だが念願の祖国に上陸、浦賀に入る。

5年後、イギリス軍スターリング艦隊で長崎に訪れた際はイギリス通訳「ジョン・マシュー・オトソン」とサインをしている(36歳)。

このとき、対応したのは長崎奉行、水野忠徳。スターリングの目的は、クリミヤ戦争でイギリスと敵対するロシアへの牽制だったのだが、水野の誤解によって、思いもかけず日英和親条約が結ばれることとなる。 

この2回の日本訪問を経ても日本はまだ開国しない。日本は幕末の混乱状態になっている。
失望した音吉は上海で、マレー人と結婚する。彼女はどうしてマレーから上海に来たのだろうか...

その後2人はマカオを経て、彼女の故郷であるシンガポールに向かう。シンガポールに定住することを決意し、馬の口入業(つまり輸送業者だ)を開業、独立する。1862年、オトソン41歳。

翌年、幕府はフランスに使節団(文久遣欧使節団)を送る。開国に向けて、日本中の精鋭をヨーロッパに向かわせたのだ。彼らは途中でシンガポールに寄ったのだが、ここで欧米についてのレクチャーを受ける。日本語を話す"オトソン"にだ。

使節団に居た若者、福沢諭吉は世界の広さに目覚める。彼が後日、慶応義塾を開き、日本を代表する教育者となることを、音吉(オトソン)は想像しただろうか...

音吉のシンガポール生活は7年間だった。そんなに長くない。 シンガポールで49歳で病死。南国の気候は彼には向かなかったようだ。 彼は息子に向かい遺言を残した。「何としても日本に戻れ」と。
彼の息子ジョン・W・オトソンは明治12年、横浜に向かう。日本に入籍し「山本音吉」と名乗った。

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「音吉」の墓は今、シンガポールの郊外、住宅地の真ん中にある。
彼の墓がシンガポールに今も残っているということが"発見された"のは、なんと2004年。最近の話なのだ。

彼の墓は発掘されて、骨の一部が日本に運ばれ、故郷の愛知県美浜町の墓に入った。
2005年2月20日。彼は173年ぶりにフルサトに戻ったのだった

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http://www.jmottoson.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Otokichi
http://www.jmottoson.com/Nikkei.html

江戸時代の田舎に住む一人の男の子が、ある日いきなり世界に放り出される。
太平洋を漂流し、インディアンの奴隷になり、イギリス軍に入り、世界一周をして、
語学を習得し、日本を開国に導き(?)、シンガポールで商売をはじめる。
彼の行動力...だけでなく、あきらめない強さに驚かされる。

でも彼は、彼が世界を動かしたことを、
気付いていたのだろうか...

(この話、映画化ぐらいできそうだと思うんだけど、どうでしょう???)

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