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日本人で初めて世界一周をしたのは、江戸時代の14歳の男の子だった

シンガポールではI君に、日本人墓地に連れて行ってもらった。僕のリクエストに応えてくれたもので、彼らも日本人墓地に行くのは初めてだという。本人墓地では、興奮しまくりだった。 I君達は、僕が喜んで歩きまわっている様子を見ることの方が面白かったようだが...

ほとんどの墓は朽ち果てているのだが、石で出来た何人かの墓は墓名文を読むことが出来る。彼らの数奇な運命を読んでいると、時間はどんどん過ぎていくのだった...

特に興味を持ったのが、シンガポール初の日本人、「音吉(オトキチ)」だ。 帰国後、彼のことを調べてみるといろいろ驚かされた。 彼の研究は最近始まったばかりだ。 かなりすごい話だと思うのだが...どれくらい知られているのだろう??

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尾張国(愛知県知多郡)に住む音吉が、海に出たのは14歳のときだった。 米や尾張特産の陶磁器を、名古屋から江戸に運ぶ船の下っ端の乗組員としてだ。 宝順丸という1500石積みの船で長さは15mほどだったという。 天保3年(1832年)11月3日出航という記録が残っている。

だが宝順丸は、静岡の南、遠州灘で嵐に遭遇する。梶が流されてしまい、船を操舵することが出来なってしまった。もうこうなると流れに任せるしかない。航路を外れ、黒潮にのってしまい、太平洋に流されたのだ。

船の乗組員は14人だったという。幸か不幸か、江戸に運ぶ年貢米が船に有ったおかげで米には困らなかった。効率は悪いがなんと蒸留装置もあったという。魚を採り、雨水を集め、航海は続いた。だが、野菜が食べれないためビタミンは不足する。乗組員は次々と倒れ、若い3人-久吉(17)、音吉(14)、岩吉(28)ーだけになってしまった。

1年以上も漂流をし、月日も分からなくなったある日、3人は陸地を発見する。なんと太平洋を横断してしまい、アメリカまでたどり着いたのだった。たどり着いた場所は"フラッター岬"(ネットで探したが詳細な場所分からず)、現在のシアトルの近くらしい。 そこでアメリカの先住民族-インディアン-マカ族に発見される。 言葉も通じず、双方とも国際知識を持ち合わせていない。お互いに何者なのかさっぱり分からない。マカ族の襲撃に遭い、力の成り行きで3人は奴隷となってしまったのだった。

その集落に偶然やってきたのがイギリスの「ハドソン湾会社」の開拓船だった。
新大陸アメリカの北方でビーバーの毛皮を集め、ヨーロッパに運び莫大な利益をあげていたのだ。(現在も「ハドソン湾会社」は存在し、カナダ最大の小売業チェーンとなっている)

その船の船長~マクドネル船長は、謎の3人を見てどう思ったのだろうか。彼は、3人をマカ族から買取り、船に乗せバンクーバーに連れて行った。バンクーバーでこの3人はアジア~東の果ての国々~から流されてきたというのは判明する。 バンクーバーの知識人、ジョン・マクラフィン博士(オレゴンの父と呼ばれているそうだ)の助言により、とりあえず本国(イングランド)に連れて行こうということになる。イギリス軍艦艇に乗せられ、バンクーバーからハワイ、ペルー、チリを経てホーン岬を回り、長い航海を経てロンドンに向かう。
3人はロンドンを訪問した初めての日本人になった。(スペインやイタリアには天正少年使節が300年前訪れている)

当時は日本は鎖国している。日本との貿易はオランダが独占している。イギリスとしては、この3人をきっかけにして日本との交易に乗り出したい。どうやらアメリカも太平洋を越えて日本を狙っているようだ。 3人は到着後すぐマカオに運ばれる。ロンドンでの滞在はわずか2週間だった。

"general palmer号"はロンドンから象牙海岸、南アフリカ、マダガスカル沖、イエメン沖、インド沖を越え、シンガポールに寄った後、6ヶ月の航海を経て、マカオに到着する。アヘン戦争前で香港はまだイギリスのものとはなっていない。マカオはイギリスとは仲の悪いポルトガルの領土だが、日本へ最も近い"西洋"だ。

まだ鎖国の時代、日本に行けるのはわずかな数のオランダ人と清国人だけ(と言っても長崎の出島だけだが)。日本人は外国に行くことは出来ない。マカオの人達は初めて見る日本人、3人は人気者となった。

せっかくマカオまで来たものの日本に向かうことは出来ない。3人はマカオで放り出されるのだが、ここでドイツ人ギュツラフと出会う。 この頃3人は、2年間イギリス人と接していたことも有り、片言の英語を話せるようになっていた。特に音吉は一番若かったことも有り英語の飲みこみが早く、ギュツラフに日本語を教え、そこで聖書の翻訳に挑戦する。「ヨハネ福音書」は日本語で書かれた初の聖書となる。
(約20年後、一人の宣教師がその聖書を持って日本へ来る。彼が作ったアルファベット表記法がヘボン式ローマ字だ)

マカオに住み2年目、3人はアメリカ人商人キングと出会う。日本に彼らを連れて行けば、日本との交易も出来るだろうとキングは考え、同じ境遇の鹿児島の漁民(庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松。彼らは太平洋上で保護されマカオに連れて来られた)と一緒に、日本に向け船(モリソン号)をすすめたのだった。

彼らはまず4人の故郷、鹿児島に向かうのだが、薩摩藩から砲撃を受けてしまう。突如現れた異国船に日本は大騒ぎになる。鹿児島が無理なら江戸に行こうとするが、浦賀でも幕府軍からの砲撃を受ける。日本上陸をあきらめた彼らはまたマカオに戻ったのだった。

この事件(「モリソン号事件」と後日いわれるようになる)は、日本開国に向かう大きな流れを産み出すのだが、音吉は知る由も無い...

鎖国している日本への帰国は無理だと考えた音吉は、一人でアメリカに向かう。自分は英語を話せるのだから、これからはアメリカ人として生きていこうと決意する。 音吉20歳。この部分がいまいち信じられないのだが...すごい行動力だ。

また太平洋を越えてアメリカに向かい、名前も音吉からオトソンに改名する...
一民間人として生活しようと彼は考えたのかもしれないが、しかしこんな貴重な人材をアメリカが放って置くはずは無かった。 またまた太平洋を越えて上海に連れて行かれ、デント商会という企業に入ることになる。 アヘン戦争が終わり西洋諸国が清に雪崩れ込んでいた。「英語が話せて漢字が読める東洋人」として上海で6年間働く。音吉25歳。

アメリカ人の民間人...になっていたオトソン(音吉31歳)は、そこでまたイギリス軍に拾われる。イギリス軍艦マリナー号乗組員として日本に向かい、ほんの一瞬だが念願の祖国に上陸、浦賀に入る。

5年後、イギリス軍スターリング艦隊で長崎に訪れた際はイギリス通訳「ジョン・マシュー・オトソン」とサインをしている(36歳)。

このとき、対応したのは長崎奉行、水野忠徳。スターリングの目的は、クリミヤ戦争でイギリスと敵対するロシアへの牽制だったのだが、水野の誤解によって、思いもかけず日英和親条約が結ばれることとなる。 

この2回の日本訪問を経ても日本はまだ開国しない。日本は幕末の混乱状態になっている。
失望した音吉は上海で、マレー人と結婚する。彼女はどうしてマレーから上海に来たのだろうか...

その後2人はマカオを経て、彼女の故郷であるシンガポールに向かう。シンガポールに定住することを決意し、馬の口入業(つまり輸送業者だ)を開業、独立する。1862年、オトソン41歳。

翌年、幕府はフランスに使節団(文久遣欧使節団)を送る。開国に向けて、日本中の精鋭をヨーロッパに向かわせたのだ。彼らは途中でシンガポールに寄ったのだが、ここで欧米についてのレクチャーを受ける。日本語を話す"オトソン"にだ。

使節団に居た若者、福沢諭吉は世界の広さに目覚める。彼が後日、慶応義塾を開き、日本を代表する教育者となることを、音吉(オトソン)は想像しただろうか...

音吉のシンガポール生活は7年間だった。そんなに長くない。 シンガポールで49歳で病死。南国の気候は彼には向かなかったようだ。 彼は息子に向かい遺言を残した。「何としても日本に戻れ」と。
彼の息子ジョン・W・オトソンは明治12年、横浜に向かう。日本に入籍し「山本音吉」と名乗った。

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「音吉」の墓は今、シンガポールの郊外、住宅地の真ん中にある。
彼の墓がシンガポールに今も残っているということが"発見された"のは、なんと2004年。最近の話なのだ。

彼の墓は発掘されて、骨の一部が日本に運ばれ、故郷の愛知県美浜町の墓に入った。
2005年2月20日。彼は173年ぶりにフルサトに戻ったのだった

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http://www.jmottoson.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Otokichi
http://www.jmottoson.com/Nikkei.html

江戸時代の田舎に住む一人の男の子が、ある日いきなり世界に放り出される。
太平洋を漂流し、インディアンの奴隷になり、イギリス軍に入り、世界一周をして、
語学を習得し、日本を開国に導き(?)、シンガポールで商売をはじめる。
彼の行動力...だけでなく、あきらめない強さに驚かされる。

でも彼は、彼が世界を動かしたことを、
気付いていたのだろうか...

(この話、映画化ぐらいできそうだと思うんだけど、どうでしょう???)
週末、シンガポールへ。

6/5(金) 夜の便でシンガポールへ。深夜2時到着後、I君の家に。
オーチャードからすぐの超一等地のコンドミニアム。
駐在員の財力を見せ付けてもらう。ここは家賃何十万円?

6月6日(土)
リトルインディア、日本人会、墓参り(?)、ナイトサファリ。
朝食はカヤトースト、昼食になぜかファミレスで海苔巻き。間食にブラウンミー(非常に美味しい)、夜食にハンバーガー。

ナイトサファリ、意外と楽しい。一人だと絶対来ない、来れない所だ。
夜、I君の家のプールで遊んでいると金持ちになった気分。

6月7日(日)
丸山さん合流、朝パクテー、昼プラウンミー、間食に海南チキンライス。
nomadさん合流後、夕食はチリクラブ、ペッパークラブ、酔っ払い海老などの宴会。

この日は丸山さんちに。ここもまた独特なマンション。
MRTの駅前に有る丘(シンガポールの都心にこんな丘が有るとは)の上に立つ高層マンション。下界を見下ろすワンルーム。日本帰国後に調べてみたら、シンガポール独立後の経済成長期を象徴する建物の一つとのことで、さもありなんと納得する。


6月8日(月)
一人で国境を越えてマレーシア、マラッカに。半日観光。マレーシア入国時にもめる。ワイロ20SGD、マレーシアのイメージがた落ち。
マラッカ散策後、シンガポールに戻る。
マラッカは世界遺産になったことも有り観光客多し。見所多いわけではなく、普通の人には面白くないだろう。歴史(特に大航海時代)好きにはたまらないのかもしれない。

深夜クラークキーで、丸山氏と飲む。そのまま眠らず空港へ。

6月9日(火)
早朝の便で帰国。

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シンガポール滞在はたった二日間。
現地在住のみんなにずっとアテンドしてもらい、非常に充実した時間を過ごせた。

...だけど「観光」ってほとんどしてないような(笑
いや、シンガポールというのはそういう所なのだろう。
ガイドブックに頼らない、不思議な旅だった。

&お腹いっぱい。また太ったような気がする。
結構歩いたような気もするんだけどなぁ。
(シンガポール日記:6月8日午後)
ハードな日程で疲れた体を癒しにマッサージに。 丸山さんの家に近い中華系の商業施設の中。 目指すはフィッシュスパ。
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前日の夜「ドクターフィッシュ」の広告を見つけて「あ、シンガポールにも有るんだ!」と思わずつぶやいたのがきっかけ。1-2年前少し日本でもブームになったあれ。一度やってみたかったのだ。

どうやらシンガポールではそんなに珍しいものではないようで、フィッシュスパが出来る店は何店舗か有るらしい。今回は30分でたしか15SGD(1000円くらい?)。

"ドクターフィッシュ"が泳ぐ水槽に足を入れると、足の角質、不健康な部分を魚が食べてくれる...のだ。5cmくらいの魚が泳ぐ水槽と、その数倍15cmくらいの魚が泳ぐ水槽が有ったのだが、小さい魚のほうに。

足を入れたとたん数十匹の"ドクター"が足にまとわり付いてくる。食べられるというより、つつかれると言った感じ。みんなキャーキャー言って大騒ぎ。周りの人の注目を浴びる。あぁ、やっぱりシンガポール人も珍しいんだな(場所は普通の商業施設です)。

どうやらこの店は流行っていないようで、久しぶりにエサを与えられた魚たちは大喜びでまとわり付いてくる。フィッシュスパの店選びは「どれだけたくさんの魚が居るか」と「どれだけ食い付きが良いか」が重要だ(と、今回気付く)。

くすぐったいと言うか、不思議な感じ。
あぁ、魚に食べられてどんどん健康になっていく私たち...
新しい感覚だ。


僕は足裏の角質が無くなりなかなか良かったのだが、他の人の感想は微妙との事だった。まぁスベスベになるわけではないしなぁ。 その後30分、普通のマッサージをやってもらったのだが、これは特にとりたててコメントすることなし。価格は日本でやる半額くらい。中国の3倍くらいか。
広州からシンガポールへ向かう中国南方航空。
座席はほぼ埋まっている。

指差し会話−インドネシア」を読んでいたら、通路をはさんだ席に座っているおじいさんが声をかけてきた。シンガポールの入国カードを取り出して何か言っている。どうやら英語が出来ないので、僕に書いてもらいたいらしい。感覚ですぐに分かった。パスポートを出してもらい、おじいさんともう一人おばあさんの二人分を代筆する。

パスポートは二人ともインドネシアのもの。国籍はインドネシアで住所はPalembang。おじいさんの誕生日は1932年。で、おじいさんの生まれた場所を見て、ちょっと驚いた。[Republic of China]。中華民国だ。人民共和国でなく。中華民国と言っても、今の台湾で生まれたという訳ではないだろう。
 
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話はずれるが、日本のパスポートに出生地を書く欄は無い。
[Place of Birth]が現在の国籍と違う人というのは、世界には結構いるのだろう。
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おばあさんの方はインドネシアになっているから、インドネシアにやってきたおじいさんが、現地の人と結婚したということだろう。どうやらインドネシア華人(華僑ではない)が、中国へ里帰りして再びインドネシアに帰宅(どっちが本当の家だ?)する途中らしい。
 
おじいさんがインドネシアになぜ、いつ移住したかは分からない。
僕が中国語かインドネシア語が出来れば話をしたかもしれないのだが。
 
日中戦争前だろうか、日本統治時代か。又は国共内戦の際か。
政治的な理由だろうか。経済的なものか。はたまた物心付く前に家族に連れられてかもしれない。
すごく興味を惹かれる。おじいさんの話を聞けば、小説1冊くらい軽く書けるだろう。
 
シンガポールでの滞在場所、滞在期間を書かなくてはいけないので、頑張ってインドネシア語の会話集を見ながら話しかけたのだが、残念ながら通じない...のだが、前に座っていたビジネスマンっぽい人が助けてくれた。僕が英語で説明するまでもなく、状況を理解したと言うか、暇な機内。向こうも気になっていたと見えるこの人は、中国語でおじいさんに話しかけた。たぶん広東語ではなく、北京語?で。おじいさんはほぼ理解している...し、おじいさんの座席のポケットに入っている新聞は漢字で書かれている...
 
おじいさんは今でもインドネシア語より中国語の方が得意なのだろうか。
おばあさんとの間は何語で話してるんだろう。普通はインドネシア語だと思うが。
現地に同化してないのかなあ。たまにインドネシアで華僑との暴動のニュースを聞くのだが。
 
ビジネスマンにあなたはシンガポーリアンかと尋ねたら、マレーシアと一言だけつぶやくように答えてくれた。
 
成田から広州の便は、日本への旅行の帰路っぽい中国人団体客ばかりだったのだが、広州〜シンガポールの便は、なんだか色々な人が混じっている。退屈な4時間もそう思ったら楽しくなった。
 
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飛行機を降りてシンガポールの入国審査に向かう時、おばあさんに、自分は日本人でこれからジャカルタに行くのだと覚えたばかりのインドネシア語で話しかけてみた。
おばあさんは特に驚きもせず笑って言った。
僕のことをインドネシア人の学生と思っていたそうだ。

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