海岸の方に進む。国道はアスファルト舗装がされているが、それ以外の道はまだされていない。瓦礫はほぼ片付いていて、車・歩行者とも通行に問題は無い。津波が来た地域は新しい家を建てることは禁止されているのだが残った建物(と言っても外壁だけ)で商売している店もわずかだが有る。ガソリンスタンドなど。
だが堤防も損傷しているのでまた津波が来たらどうしようもない。夜は完全に無人地帯、暗闇となるので住むのはまだ無理。
道をふさぐものが有ったので車を降りて見てみるとなんと蒸気機関車だった。これはさすがに動かせない...まわりは除去された瓦礫が数メートルの高さで積まれている。
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周囲は見渡す限り何も無い。津波が届かなかった周囲の山の緑との対照が際立つ。風をさえぎるものが無く、砂ほこりがひどい。瓦礫除去作業に携わった人はアスベスト対策なんてしてないだろう。原子力云々だけでなく、ここに長時間居たら健康被害もひどいだろう。次はどこから何を手をつけたらよいかなど全く分からない感じ。
道を挟んで5階建の建物が残っていた。志津川病院だった。志津川病院を目指してきたわけではないのだが、防災庁舎と同じく今回の震災の"舞台"となった場所に自分が居ることに改めて驚く。
志津川病院(震災前からそのままのサイト/現在はもちろん運営されていない)
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/byouin/index.php
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病院には怖くて入らなかった。風が本当にすごい。
志津川病院には地震発生時に107人の入院患者が居た。屋上に避難することが出来なかった患者が多く亡くなった。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110607_01.htm
志津川病院の建物はしっかりしていたのだろう、周囲の建物はほぼ壊滅しているのだが、病院の建物は崩れなかった(現に今もしっかり建っている)。5階までは水は来なかったので何十人かは津波を乗り切ったのだが、悲惨な状態はそれで終わらず、医師達のそれからの奮闘がこの病院の名前を世界に広めることになった。
津波が過ぎた後も周囲はすべて海になってしまい、逃げることは出来なかった人達は屋上で夜を明かした。雪が降り、海の真ん中に居るのと同じ状態、吹きさらしの中で救援が来るまで耐えなければならなかった。何人もの患者が夜を乗り切れずに亡くなったのだが、医師・看護士は食べ物・医薬品・電気・包帯すら無い状態で病人・怪我人の面倒を見続けた。情報も無い状態(テレビでは"宮城県で死者・行方不明者が多く出ている模様です"など言っていた)で耐えるのは大変だっただろう。
この突如として"野戦病院"となった状態で奮迅した医師は、TIME誌の今年の「世界に影響力のある100人」に選ばれた。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110607_01.htm
http://www.asahi.com/international/update/0422/TKY201104220187.html
ここに来て意外、想像と違ったのは、病院が海のすぐそばに有ったことだった。高さはほぼ海抜0メートル(たぶん数メートル)、海岸線からも数百メートルの場所。よくこんな立地で生き残ったなぁと思える場所にこの病院は有った。
病院の前は国道で、気仙沼方面へ向かう車が、数分に一台くらいのペースで通る。仙台から気仙沼方面へのバスもここを通っていた。周囲の荒涼とした風景をバスの乗客は食い入るように見ていた。