日本人観光客が熱狂する「意外な」商品
(中央日報2009年9月2日)

まさしくこの記事中写真の売り場でお土産を買った。ロッテマートのソウル駅店2階食料品売り場。

ワッフルは買わなかったが(知らなかった)。定番の海苔、コチジャン。レトルトパックのサムゲタンは帰国後すぐ食べきった。ゆず茶も家に常備している(これは買わなくても自分でも作れるが)。

韓国は食事が安くて美味しいのが良い。

景福宮を観光した後、徒歩で「チェジュ料理(済州島の料理)」の店に向かう。ソウル中心の官庁街ではあるが小さな路地に、その店は有った。
アシアナ航空で働くSさんの元同僚が経営する店だという。韓国人の男性と結婚し、ソウルに移住し夫婦で開いた料理店。テーブル席の他に、上がり框の有る10人くらいが入れる座敷。日本でいうところの「定食も食べれる居酒屋」だ。家の近くにこんな店があれば重宝するだろう。それぞれの座席(畳の部屋を貸切、田舎の宴会スタイルだ)に着いた時に、店の人が言った。

「最初のスープですが、『味噌のスープ』が良いですか?『ウニのスープ』が良いですか?」
...

聞くまでもない。全員が即座に『ウニのスープ!雲丹、ウニ!』と答えたのであった。

韓国に来て2日目。日本の味「味噌汁」が恋しくなったのではないかという親切な配慮なのであろうか。それとも韓国では味噌と雲丹が同等の価値を持つのであろうか。又は味噌スープの具は豪華絢爛なのであろうか。いや、しかし皆の心は互いに確認するまでも無い。ウニを食べたい!のであった。

味は当然満足のいくものだった。ウニとわかめのスープ。
メインが来るまでにテーブル一杯に並べられたキムチなどの惣菜。
30cm鍋にぎっしりと入った太刀魚の辛煮。

昼間からマッコリを飲み、満腹になった一団は満足して店を出た。
満足の理由は味だけではない。値段にも有るのだが、正確な金額は忘れた。チェジュ島の料理と名乗るからには、蛸や新鮮な魚介類のフェ(韓国風刺身)も出すのであろう。日本人なら誰でも喜ぶだろう。韓国で居酒屋を開拓するのも楽しい。
仁川空港に到着後、他の便で来る知人を待つ。折角なので待ち時間にウエルカムボードを作成。
コンビニで太字のペンを赤黒2本購入、店の横に捨ててあるダンボールを拾い、ダンボールを適当な大きさに折りたたみ、裏に「歓迎」などのメッセージを書く。ビジネスクラスで韓国来たが、やってることはホームレスだ。いざ、到着ゲートへ。

ベンチでがさごそしている僕を、韓国人おじさんが興味深そうに見ている。ゲートでは同じNWの便を待っている大学生グループに「ジャパンジャパン」と言われ?、小さな子供に替りにボード持ってもらい喜ばれたり(?)、束の間の交流をして過ごす。
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みんなと合流後は、市内の宿に。今回の宿は団体ということで、日本から予約していた普通っぽいホテル。どこかで聞いた名前にそっくり(しかし、パッカー宿)。

僕だけ予約していなかったのでドミトリー。同室になったのは、日本に進出希望の韓国企業に技術コンサルティングに来ているという日本人ビジネスマン(と言うか大阪商人)と、オマーン人旅行者。この日本人は3週間も滞在しているそうな。オマーン人は1週間くらいいるということだが、いつも眠っているので会話せず。 なんだか僕の部屋だけ"濃い"ような気がするのだがどうしてだろうか。

いつもの大元旅館とは違う。だが清潔だし、ネットも無料。ロビーで何か飲みながらゴロゴロしてたらそれなりに話し相手も出来そうで、まぁこんな宿も良いかなと思った。
1泊たしか17000W(1500円くらい)。
今回もまた成田空港にぎりぎりに到着。少しでも時間を短縮するため、柴山千代田行に乗って東成田駅下車。第2ターミナルまで600mダッシュ。 今回はアルバイトのYさんに助けてもらう。Yさんは以前成田のJALに居たので、直通の電話番号が分かった。

必死の形相だったのだろうか。出発カウンターにたどり着いた途端、職員に「お急ぎですか?」と声をかけてもらえた。誘導で優先カウンターでチェックインさせてもらう。

カウンター「中西様、お電話ありがとうございます。まだ間に合いますよ」
N西 :「はぁはぁ」
カウンター「中西様、お荷物は有りませんよね」
N西 :「えぇ。はぁはぁ」
カウンター「中西様は通路側が宜しいですよね?」
N西:「そんな登録してましたっけ?はぁはぁ」
カウンター「あいにく窓側はすべて埋まっておりますので」
N西:「あ、別にかまいませんよ。はぁはぁ」
カウンター:「中西様、ではお時間迫ってますので、すぐ出国手続きへどうぞ」 

座席番号は7Cだった。 あら?この飛行機って全席エコノミーだったかしら?
シートに座り、「あ、新型機なんだ、なんて良い座席なんだろう?」と思う。あら、リクライニングが180度になるじゃないか! マッサージ機能まで有る。あ、これがシェル型シートか。隣も後ろも気にならないや...
http://www.jal.co.jp/aircraft/conf/777er.html
http://www.jal.co.jp/inflight/inter/executive/c_seat/3d.html

この時点でビジネスクラスにアップグレードされたことにやっと気付いた。JALさんありがとう。Yさんのおかげかな?電話をしたからだろうか?ぎりぎりに行ったからか?いや、きっと自分の日頃の行いが良いからだ。たぶん。
帰らなかった日本兵」 長洋弘

太平洋戦争後も、インドネシアに残留、日本に帰らなかった(帰れなかった)日本人のその後を追うルポ。幸せに過ごす人、どう見ても幸せとは言い難い人。波乱万丈の人たちの戦後を追う。
この本が書かれたのは10年前。判明しているだけで当時177人の人がまだ生きていた。
この本に出てくる人達は今はどうなっているのだろう。


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「私は大正10年(1921年)2月13日秋田県河辺郡浜田村で生まれました。子供の時から船乗りになると決めていました。 千葉の砲術学校で訓練を受けた後に「秋田丸」に乗りました。20歳でした。船長は岡田熊吉さん(千葉県出身)で、乗組員は38人でした。神奈川県の三崎港を基地にしてトラック島やサイパンでマグロを捕っていました。

そんな時、太平洋戦争が始まりました。昭和17年11月20日、船が海軍に徴用されました。乗組員はそのまま全員が軍属(軍属:戦闘を行う軍人ではなく、軍で働く者)になりました。正式には日本海軍暁部隊の軍属です。三崎港からニューギニアまで食料・弾薬・兵士を運びました。その後は日本軍の進駐したインドネシアのジャワ・スマトラの島嶼間を、食料品・油などを運びました。

昭和18年になるとアメリカ軍の爆撃がひどくなりました。海の上で見つかったら、こんな小さな船、一発でおしまいです。運が良かったのか。徴用された船で残ったのは秋田丸くらいです。終戦はシンガポール、マラッカ沖でラジオを傍受して知りましたが、誰も信じませんでした。

敗戦を実感したのは8月下旬パカンバルに連合軍の憲兵が上陸し、150人の(連合軍の)捕虜を解放したときです。連合軍の命令で、その開放された捕虜たちをシンガポールに運びました。船尾に掲げていた日本海軍旗は降ろされました。その後は秋田丸は復員船として、スマトラ各地からシンガポールの間を行き来しました。敗戦国日本の将兵はみじめでした。

私は昭和22年(1947年)、秋田丸を下りた時に国を捨てる決心をしていたのかもしれません。
秋田丸は私の人生そのものです。鳥海山、十和田、なまはげ。秋田丸には私の祖国そのものが詰まってました。

日本軍が居なくなったインドネシアでは、オランダからの独立運動が盛んに成ってました。義勇軍出身のインドネシア人に誘われてゲリラ戦を闘いました。インドネシア独立後も私はインドネシア海軍に残りました。マレーシア紛争、イリアンジャヤ奪回作戦に参加した私はインドネシア海軍が日本から購入した輸送艦アマハイラ号に乗って、船の修理のため横浜に行きました。インドネシア海軍軍人としてです。22年ぶりの帰国でした。

母はその2週間前に老衰で亡くなっていました。父は私の幼少の頃に亡くなっています。私はこの帰国の2年前に初めて手紙を書きました。「万次郎です。お許しください。内地では私は死んだものとなっていると思います。元気です。ご安心ください。日本の商船、漁船がたくさん来ています。一度私も日本に行ってみたいと思います」

私はインドネシア政府から英雄勲章をはじめ15の勲章をいただきました。しかし私の勲章は秋田丸なのです。秋田丸はイギリス軍に引き渡してから見ていません。もう一度あの白い船体を見てみたいものです。」

1970年(昭和45年)、安藤はインドネシア海軍を退役し、長い戦いは終わった。
彼は1960年(昭和35年)の夏の出来事を今でも鮮明に思い出すと言う。

「インドネシア海軍がソ連(当時)に発注した軍艦エリアン号を受取にウラジオストックに行きました。その時私はそこで、ドッグで働く多くの日本人と出会ったのです。白髪が混じりまるで老人のようでした。終始監視され自由の全く無い彼らは、日本が平和になったことすら知りませんでした。戦後15年経っているのに。彼らがその後どうなったかは私は知る由も有りません。あの時に離隊した私に比べ、戦後の祖国を知らない彼らより私は恵まれていると思いました」

~~イスマエル・タンジュン・アンドウ ~日本名:安藤万次郎
ジャカルタにて過ごす。妻と子供7人~~

秋田県の記録によれば、秋田丸は秋田県水産試験場調査船として1933年建造。東部太平洋、沿海州の漁業調査後、1944年海軍に徴用、スマトラ文政官所属漁業指導船となる。戦時下の記録は混乱のため不明。1945年スマトラ島パカンバルにおいてイギリスに没収、乗組員は捕虜として抑留後復員、とある。

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波乱万丈の人生を過ごした人が次々と紹介される。
上記の彼の歩みは特に、僕が行った場所といろいろとかぶることもあり、気になった。
ちなみに彼はかなり成功した部類に入る。悲惨な人は本当に悲惨な人生を過ごしている。
清濁併せ呑む街、マカオ。ポルトガルの海外領土として500年。中国の行政地域となったとはいえ、中国本土とは違う文化が生きている。最近この10年の急激な開発、カジノの人気ぶり、大陸人の流入での雰囲気の変化は憂えているのだが...

キリスト教(カトリック、プロテスタント)、仏教、道教、船乗りが進行する各国土着の宗教、様々な宗教の信徒が住む街。 その反対に、世俗的な人も世界中から集う街。
ニューヨークがミックスジュース(人種の個性が混ざる街)ではなくサラダボール(各人種の個性が共存する街)に例えられるようになったのは今から15年位前から。マカオはそれよりも以前からサラダボールの状態だった。

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シンガポールで"音吉"の墓を見てから1ヶ月。「海嶺」を読み、音吉が数年間滞在したマカオについて関心が深まる。太平洋を漂流しイギリスを経由しマカオにたどり着いた彼らはマカオで、イギリス商務省役人でキリスト教伝道師でもあるギュツラフのの保護を受ける。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1200067687&owner_id=843613

国籍や信仰宗教によらず誰でも暮らせる街マカオ。
この混沌とした街の魅力に以前から自分は惹かれてきた。

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マカオには各国から人が集った。大航海時代のポルトガル人だけではない。スペイン人、オランダ人、香港がイギリスの植民地となるまでは、イギリスやアメリカ人。軍人、商人、金持ちから奴隷まで。朱印船貿易時代は多くの日本人も訪れた。

本人の意思に因らず訪れた多くの亡命者。迫害を受けて逃げてきた各地の難民。江戸時代には鎖国で追われた日本人、政変で追われてきた明・清国人、越南(ベトナム)人。

第二次世界大戦時代の、共産党・国民党・日本軍・イギリス人・アメリカ人の不思議な共存生活。(ポルトガルは中立国だったので、マカオは大戦中も中立地帯だった。実際は小競合いは頻発し、各国スパイが暗躍した)

文化大革命の騒乱。共産中国と資本主義国ポルトガルとの対立。 インドシナ・ベトナム戦争時の思想対立。インドネシア騒乱と、東チモール難民の受入れ(東チモールもポルトガル領だった)。

タイパ島と対岸の中国との間は泳いで渡れる距離で、昔は不法入国者も居たようだが、中国の生活水準が上がったこともあり中国難民は今は居ない様だ。海岸の警備兵も今は居ない。

だが、現在もどんな組織に属している者も受け入れる不思議な街。
後継者争いに負けた(?)金正男もマカオで家族と暮らしている。(北朝鮮特務もマカオではさすがに手を出すことができないようだ) 


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【マカオとの関わり】
僕が初めて海外旅行に行ったのが香港とマカオ。高校の修学旅行でだ。
アジア各国6コースの中から一つを選ぶと言うものだったが、なぜそのコースを選んだのかは分からない。しかしそれまで海外に行くと思ったことの無い田舎の高校生にとって、これは大きな転機だった。

その旅行ではマカオには香港から日帰りで訪れただけだ。餌の模型を目がけて走るドッグレース場の犬のお間抜けぶり(高校生をこんな所に行かせるとは)、昼食のちゃちい洋風料理(今思い返せば、あれはポルトガル料理ではない)...と、たいした記憶は無いのだがこの街の魅力に気付いてしまったのは確かだ。バイト代を貯めて、4ヵ月後の春休みに再訪したのだから。

それから10年。ポルトガル人の後を追ってリスボンやマラッカ、シンガポール、九州(平戸/五島/長崎/島原/天草/鹿児島/種子島/沖縄各地)を何度も旅をしたが、言葉では表現できないがいつも奥深さを感じさせる。
中国と西洋の混じった"中西"な不思議な街、マカオ(街中には[中西美食][中西装飾]などの看板をみかける)。まだ目が離せない。

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【もっと知りたい】
歴史をざっと知りたいのなら普通はモンテの丘に有る博物館(ポルトガル軍の要塞が有った)に行くのだろうが、もっと深く本当に調査したいのなら民政総署の2階にある文書館と、聖オーガスティン教会の傍のロバート・ホートン図書館。ポルトガル統治下の数百年間の資料が誰でも閲覧できる。民政総署(海外領行政府)には本当に貴重っぽい書類が誰でも閲覧できる。言葉(ポルトガル語か、せめて英語でも)が分かれば絶対楽しいはずなのだが...

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【マカオでの食事】
タイパ島官也街にはお手頃価格のレストランが多いのだが、その中の「サントス(山度士葡式餐廳)」。残留ポルトガル人のサントスさんの経営。ポルトガルの素朴な料理多い。味も良い。ポルトガル人がテレビを観てサッカーの応援をしていたりする。

セナド広場から徒歩10分ほどの[]は大航海時代の産物マカオ料理。アフリカや中近東のスパイスと、中華の食材のmix。定番はカレークラブ、アフリカンチキンなど。

ポルトガル軍の将校クラブだった「ミリタリークラブ(葡萄牙陸軍餐庁)」ではポルトガル料理とワイン。お手頃メニューから豪華コースまで。団体ツアーでも使われるが、セットメニューではなくアラカルトで頼むとちゃんとしたのをつくってくれる。料理、ワインとも種類多い。

サンズやリスボア、ベネチアンなどのカジノのレストランは意外と庶民的な値段だが、金さえ出せばすごい料理も。広東料理がハズレが無いような気もする。いやそんなに場数踏んでないけど。(でも、上の3つ以外のカジノのレストランは全然イケテない。昔はハイアットの1階奥にあったレストラン[フラミンゴ]が良かったのに!本当に)

以前、リスボアでパーティを企画したことが(実現しなかったが)有ったが値段が天井知らずですごかった。豚1匹丸焼きして美味しい所だけ食べるとか(笑)。広東人金持ちってステキ。


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【マカオの観光名所】
セントポール教会の跡にツアーだと連れて行かれるのだが、観光地化されていて面白くない。これだけを観てマカオを後にすれば、マカオのイメージは良くないものとして残るだろう。
教会もギア教会(世界遺産だが)は素朴で歴史もあるのだが、今ひとつ。近くにはポルトガル軍の要塞跡が有る。

廟、道教寺院も北の方に何件か有り趣は有るが、自分は一度行けば十分。

それよりも普通に、街を散策するほうが楽しい。
福隆新街には真っ赤な中国風の置屋(昔の歓楽風俗街)が並ぶ。
中国との国境付近には元不法入国者の雑多なマンション(見ても面白く無いが)。
廟の近くの広東人達の昔の暮らし(共産中国では廃れてしまった文化)。
半島南部の超高級住宅ヴィラ街(誰が住んでるんだか)。
路環村の古い南国風?の民家。

マカオには30もの世界遺産に指定された建物がある。
この狭い土地にこれだけ密集するのはローマとマカオだけだろう。見所は多いのだがそれよりも、マーガレットのエッグタルトか、義順のプリンでも買って、カモンエスの広場でのんびり時間を過ごすひと時(カジノで熱くなった頭を冷やして)が良い。


【泊まるところ】
マカオにはバックパッカーが泊まるようなゲストハウスやYHは無い(有るのかもしれないが必要無い)。中国の大都市に有るようなあまり面白みの無いホテルで数千円も有れば泊まれる(ホテルや予約サイト、日本で申込ではなく、現地の旅行会社を通すと安い)。

最近出来た欧米資本のカジノホテル(ベネチアンとか)は設備サービスともに良いと思われる(まだ僕は泊まったこと無い)。 これまでマンダリンオリエンタルが高級と言われていたが、自分の感想としては、値段の割りにたいしたこと無いイメージ。

特殊なホテルとして挙げるなら、マカオ半島の南端に有るポウサタ・デ・サンチアゴ(聖地牙哥酒店)。300年前のポルトガル軍の要塞を改造したホテル。クラシックな内装で人気。テラスで海を眺めて大航海時代に思いを馳せながらお茶するだけでも良いが、宿泊を薦める。全室スィート。12部屋のみ、早めの予約を。チャペルは昔からある本物なのだがしょぼい。


【マカオに住む人】
実際に住んでいるのはほとんどが広東人。何百年も住む人も、数十年前に不法入国してきた人もどちらも多い。
昼時には昼ごはんを食べに家に帰る、制服を着た学生をたくさん見かけるだろう。みな真面目に見える。カジノの制服を着たディーラー達の出勤風景もお馴染みだが、みな真面目そうだ。
カジノや歓楽街が住宅地と密接しているのは教育に悪いのでは無いかと考えるのだが、そうでも無いようだ。反面教師として捉えているのだろうか。「外国人や大陸人のようにカジノにはまると失敗するのよ!真面目にカジノで働いてあいつらからがっぽりせしめるのよ!」みたいな。

タイパ島にマカオ大学が有る。歴史は浅いが、伝統的に豊かな中国人は子供の教育には力を入れる。欧米に留学する人も多いのだろう。

ザビエル教会で、父親がポルトガル人と中国人とのハーフで、母親がアメリカン人という女の子とここで出会った。ハワイ大学で神学を学び、生まれた街マカオに戻ってきたという。こういうのがマカオっぽくて良い。


【おまけ】
3D-MACAU 
シンガポールではI君に、日本人墓地に連れて行ってもらった。僕のリクエストに応えてくれたもので、彼らも日本人墓地に行くのは初めてだという。
日本人墓地では、興奮しまくりだった。 I君達は、僕が喜んで歩きまわっている様子を見ることの方が面白かったようだが...

ほとんどの墓は朽ち果てているのだが、石で出来た何人かの墓は墓名文を読むことが出来る。彼らの数奇な運命を読んでいると、時間はどんどん過ぎていくのだった...

特に興味を持ったのが、シンガポール初の日本人、「音吉(オトキチ)」だ。 帰国後、彼のことを調べてみるといろいろ驚かされた。 彼の研究は最近始まったばかりだ。 かなりすごい話だと思うのだが...どれくらい知られているのだろう??

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尾張国(愛知県知多郡)に住む音吉が、海に出たのは14歳のときだった。 米や尾張特産の陶磁器を、名古屋から江戸に運ぶ船の下っ端の乗組員としてだ。 宝順丸という1500石積みの船で長さは15mほどだったという。 天保3年(1832年)11月3日出航という記録が残っている。

だが宝順丸は、静岡の南、遠州灘で嵐に遭遇する。梶が流されてしまい、船を操舵することが出来なってしまった。もうこうなると流れに任せるしかない。航路を外れ、黒潮にのってしまい、太平洋に流されたのだ。

船の乗組員は14人だったという。幸か不幸か、江戸に運ぶ年貢米が船に有ったおかげで米には困らなかった。効率は悪いがなんと蒸留装置もあったという。魚を採り、雨水を集め、航海は続いた。だが、野菜が食べれないためビタミンは不足する。乗組員は次々と倒れ、若い3人-久吉(17)、音吉(14)、岩吉(28)ーだけになってしまった。

1年以上も漂流をし、月日も分からなくなったある日、3人は陸地を発見する。なんと太平洋を横断してしまい、アメリカまでたどり着いたのだった。たどり着いた場所は"フラッター岬"(ネットで探したが詳細な場所分からず)、現在のシアトルの近くらしい。 そこでアメリカの先住民族-インディアン-マカ族に発見される。 言葉も通じず、双方とも国際知識を持ち合わせていない。お互いに何者なのかさっぱり分からない。マカ族の襲撃に遭い、力の成り行きで3人は奴隷となってしまったのだった。

その集落に偶然やってきたのがイギリスの「ハドソン湾会社」の開拓船だった。
新大陸アメリカの北方でビーバーの毛皮を集め、ヨーロッパに運び莫大な利益をあげていたのだ。(現在も「ハドソン湾会社」は存在し、カナダ最大の小売業チェーンとなっている)

その船の船長~マクドネル船長は、謎の3人を見てどう思ったのだろうか。彼は、3人をマカ族から買取り、船に乗せバンクーバーに連れて行った。バンクーバーでこの3人はアジア~東の果ての国々~から流されてきたというのは判明する。 マクラフリン博士(オレゴンの父と呼ばれているそうだ)の助言により、とりあえず本国(イングランド)に連れて行こうということになる。イギリス軍艦艇に乗せられ、バンクーバーからハワイ、ペルー、チリを経てホーン岬を回り、長い航海を経てロンドンに向かう。
3人はロンドンを訪問した初めての日本人になった。(スペインやイタリアには天正施設が300年前訪れている)

当時は日本は鎖国している。日本との貿易はオランダが独占している。イギリスとしては、この3人をきっかけにして日本との交易に乗り出したい。どうやらアメリカも太平洋を越えて日本を狙っているようだ。 3人は到着後すぐマカオに運ばれる。ロンドンでの滞在はわずか2週間だった。

"general palmer号"はロンドンから象牙海岸、南アフリカ、マダガスカル沖、イエメン沖、インド沖を越え、シンガポールに寄った後、6ヶ月の航海を経て、マカオに到着する。アヘン戦争前で香港はまだイギリスのものとはなっていない。マカオはイギリスとは仲の悪いポルトガルの領土だが、日本へ最も近い"西洋"だ。

まだ鎖国の時代、日本に行けるのはわずかな数のオランダ人と清国人だけ(と言っても長崎の出島だけだが)。日本人は外国に行くことは出来ない。マカオの人達は初めて見る日本人、3人は人気者となった。

せっかくマカオまで来たものの日本に向かうことは出来ない。3人はマカオで放り出されるのだが、ここでドイツ人ギュツラフと出会う。 この頃3人は、2年間イギリス人と接していたことも有り、片言の英語を話せるようになっていた。特に音吉は一番若かったことも有り英語の飲みこみが早く、ギュツラフに日本語を教え、そこで聖書の翻訳に挑戦する。「ヨハネ福音書」は日本語で書かれた初の聖書となる。
(約20年後、一人の宣教師がその聖書を持って日本へ来る。彼が作ったアルファベット表記法がヘボン式ローマ字だ)

マカオに住み2年目、3人はアメリカ人商人キングと出会う。日本に彼らを連れて行けば、日本との交易も出来るだろうとキングは考え、同じ境遇の鹿児島の漁民(庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松。彼らは太平洋上で保護されマカオに連れて来られた)と一緒に、日本に向け船(モリソン号)をすすめたのだった。

彼らはまず4人の故郷、鹿児島に向かうのだが、薩摩藩から砲撃を受けてしまう。突如現れた異国船に日本は大騒ぎになる。鹿児島が無理なら江戸に行こうとするが、浦賀でも幕府軍からの砲撃を受ける。日本上陸をあきらめた彼らはまたマカオに戻ったのだった。

この事件(「モリソン号事件」と後日いわれるようになる)は、日本開国に向かう大きな流れを産み出すのだが、音吉は知る由も無い...

鎖国している日本への帰国は無理だと考えた音吉は、一人でアメリカに向かう。自分は英語を話せるのだから、これからはアメリカ人として生きていこうと決意する。 音吉20歳。この部分がいまいち信じられないのだが...すごい行動力だ。

また太平洋を越えてアメリカに向かい、名前も音吉からオトソンに改名する...
一民間人として生活しようと彼は考えたのかもしれないが、しかしこんな貴重な人材をアメリカが放って置くはずは無かった。 またまた太平洋を越えて上海に連れて行かれ、デント商会という企業に入ることになる。 アヘン戦争が終わり西洋諸国が清に雪崩れ込んでいた。「英語が話せて漢字が読める東洋人」として上海で6年間働く。音吉25歳。

アメリカ人の民間人...になっていたオトソン(音吉31歳)は、そこでまたイギリス軍に拾われる。イギリス軍艦マリナー号乗組員として日本に向かい、ほんの一瞬だが念願の祖国に上陸、浦賀に入る。

5年後、イギリス軍スターリング艦隊で長崎に訪れた際はイギリス通訳「ジョン・マシュー・オトソン」とサインをしている(36歳)。

このとき、対応したのは長崎奉行、水野忠徳。スターリングの目的は、クリミヤ戦争でイギリスと敵対するロシアへの牽制だったのだが、水野の誤解によって、思いもかけず日英和親条約が結ばれることとなる。 

この2回の日本訪問を経ても日本はまだ開国しない。日本は幕末の混乱状態になっている。
失望した音吉は上海で、マレー人と結婚する。彼女はどうしてマレーから上海に来たのだろうか...

その後2人はマカオを経て、彼女の故郷であるシンガポールに向かう。シンガポールに定住することを決意し、馬の口入業(つまり輸送業者だ)を開業、独立する。1862年、オトソン41歳。

翌年、幕府はフランスに使節団(文久遣欧使節団)を送る。開国に向けて、日本中の精鋭をヨーロッパに向かわせたのだ。彼らは途中でシンガポールに寄ったのだが、ここで欧米についてのレクチャーを受ける。日本語を話す"オトソン"にだ。

使節団に居た若者、福沢諭吉は世界の広さに目覚める。彼が後日、慶応義塾を開き、日本を代表する教育者となることを、音吉(オトソン)は想像しただろうか...

音吉のシンガポール生活は7年間だった。そんなに長くない。 シンガポールで49歳で病死。南国の気候は彼には向かなかったようだ。 彼は息子に向かい遺言を残した。「何としても日本に戻れ」と。
彼の息子ジョン・W・オトソンは明治12年、横浜に向かう。日本に入籍し「山本音吉」と名乗った。

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「音吉」の墓は今、シンガポールの郊外、住宅地の真ん中にある。
彼の墓がシンガポールに今も残っているということが"発見された"のは、なんと2004年。最近の話なのだ。

彼の墓は発掘されて、骨の一部が日本に運ばれ、故郷の愛知県美浜町の墓に入った。
2005年2月20日。彼は173年ぶりにフルサトに戻ったのだった

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http://www.jmottoson.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Otokichi
http://www.jmottoson.com/Nikkei.html

江戸時代の田舎に住む一人の男の子が、ある日いきなり世界に放り出される。
太平洋を漂流し、インディアンの奴隷になり、イギリス軍に入り、世界一周をして、
語学を習得し、日本を開国に導き(?)、シンガポールで商売をはじめる。
彼の行動力...だけでなく、あきらめない強さに驚かされる。

でも彼は、彼が世界を動かしたことを、
気付いていたのだろうか...

(この話、映画化ぐらいできそうだと思うんだけど、どうでしょう???)
週末、シンガポールへ。

6/5(金) 夜の便でシンガポールへ。深夜2時到着後、I君の家に。
オーチャードからすぐの超一等地のコンドミニアム。
駐在員の財力を見せ付けてもらう。ここは家賃何十万円?

6月6日(土)
リトルインディア、日本人会、墓参り(?)、ナイトサファリ。
朝食はカヤトースト、昼食になぜかファミレスで海苔巻き。間食にブラウンミー(非常に美味しい)、夜食にハンバーガー。

ナイトサファリ、意外と楽しい。一人だと絶対来ない、来れない所だ。
夜、I君の家のプールで遊んでいると金持ちになった気分。

6月7日(日)
丸山さん合流、朝パクテー、昼プラウンミー、間食に海南チキンライス。
nomadさん合流後、夕食はチリクラブ、ペッパークラブ、酔っ払い海老などの宴会。

この日は丸山さんちに。ここもまた独特なマンション。
MRTの駅前に有る丘(シンガポールの都心にこんな丘が有るとは)の上に立つ高層マンション。下界を見下ろすワンルーム。日本帰国後に調べてみたら、シンガポール独立後の経済成長期を象徴する建物の一つとのことで、さもありなんと納得する。


6月8日(月)
一人で国境を越えてマレーシア、マラッカに。半日観光。マレーシア入国時にもめる。ワイロ20SGD、マレーシアのイメージがた落ち。
マラッカ散策後、シンガポールに戻る。
マラッカは世界遺産になったことも有り観光客多し。見所多いわけではなく、普通の人には面白くないだろう。歴史(特に大航海時代)好きにはたまらないのかもしれない。

深夜クラークキーで、丸山氏と飲む。そのまま眠らず空港へ。

6月9日(火)
早朝の便で帰国。

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シンガポール滞在はたった二日間。
現地在住のみんなにずっとアテンドしてもらい、非常に充実した時間を過ごせた。

...だけど「観光」ってほとんどしてないような(笑
いや、シンガポールというのはそういう所なのだろう。
ガイドブックに頼らない、不思議な旅だった。

&お腹いっぱい。また太ったような気がする。
結構歩いたような気もするんだけどなぁ。
(シンガポール日記:6月8日午後)
ハードな日程で疲れた体を癒しにマッサージに。 丸山さんの家に近い中華系の商業施設の中。 目指すはフィッシュスパ。
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前日の夜「ドクターフィッシュ」の広告を見つけて「あ、シンガポールにも有るんだ!」と思わずつぶやいたのがきっかけ。1-2年前少し日本でもブームになったあれ。一度やってみたかったのだ。

どうやらシンガポールではそんなに珍しいものではないようで、フィッシュスパが出来る店は何店舗か有るらしい。今回は30分でたしか15SGD(1000円くらい?)。

"ドクターフィッシュ"が泳ぐ水槽に足を入れると、足の角質、不健康な部分を魚が食べてくれる...のだ。5cmくらいの魚が泳ぐ水槽と、その数倍15cmくらいの魚が泳ぐ水槽が有ったのだが、小さい魚のほうに。

足を入れたとたん数十匹の"ドクター"が足にまとわり付いてくる。食べられるというより、つつかれると言った感じ。みんなキャーキャー言って大騒ぎ。周りの人の注目を浴びる。あぁ、やっぱりシンガポール人も珍しいんだな(場所は普通の商業施設です)。

どうやらこの店は流行っていないようで、久しぶりにエサを与えられた魚たちは大喜びでまとわり付いてくる。フィッシュスパの店選びは「どれだけたくさんの魚が居るか」と「どれだけ食い付きが良いか」が重要だ(と、今回気付く)。

くすぐったいと言うか、不思議な感じ。
あぁ、魚に食べられてどんどん健康になっていく私たち...
新しい感覚だ。


僕は足裏の角質が無くなりなかなか良かったのだが、他の人の感想は微妙との事だった。まぁスベスベになるわけではないしなぁ。 その後30分、普通のマッサージをやってもらったのだが、これは特にとりたててコメントすることなし。価格は日本でやる半額くらい。中国の3倍くらいか。


(1日目・11月23日)

 

目覚めるともう9時。到着が遅かったのでこの宿では夕食は取らず朝食だけをつけてもらう。
朝食は美味しかった。魚がやはり非常に新鮮。

10時過ぎようやく出発。国道を南下するが、広場で祭りをやっている。南国っぽい(本州の者からすれば)不思議な雰囲気。全員がつけている面も、踊りも唄も、前知識無しにいきなり遭遇したのでかなり興味を惹かれ、動けなくなりしばらく見入る。

屋台も(自分の住む関東や、出身の関西と比較すると)どこかが違う。トビウオのさつま揚げ。500円で結構なボリューム。トビウオはこのあたりではよく獲れ、スーパーでも安く売っている。
 

おにぎりもこんな感じ。昼食用に買って出発。
国道は海に近い部分を走っており、平坦地は少なく起伏は有るが、勾配はそれほどでもない。西之表から中種子までは海岸沿い、そこから南種子の宇宙センターへは島を横切るように進む。

熊野海岸で海を見ながら休憩。さつま揚げを食べていると通りがかった車から人が降りてきた。「兄ちゃん、何してるん?」


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