【八島】人口10人の島で、600人いた頃の暮らしを聴く(山口県上関町)
室津港から八島までは、1日3便の連絡船で約30分、運賃は590円。乗客は自分たちだけだった。台風が過ぎた翌日の瀬戸内海は穏やかで、船は静かな海を進んでいく。
八島について事前に分かっていたことは、「島には店がない」ということくらいだった。この日の夜は祝島に泊まる予定で、船の時間がちょうど合ったため、その途中に立ち寄ってみることにした。折り返しの船が出るまで、滞在できるのは2時間半ほどしかない。
桟橋を出たところに島の案内図があった。北部にはビャクシン群や八島神社があるようだが、そこまで行くには標高142mの山を越えなければならない。限られた時間では難しそうなので、まずは集落の端の高台にある浄慶寺へ向かった。
集落は驚くほど小さい。家そのものは残っているものの、現在も人が暮らしているように見える家はほとんどない。細いコンクリート舗装の道を坂の上へと歩いていくと、やがて浄慶寺に着いた。
本堂を覗くと、中にいた女性と目が合った。挨拶をすると、「上がっていき」と本堂へ招いてくれた。住職のお母さんだという。
「東京からわざわざ?」
八島だけを目的に東京から来たわけではなく、今晩は祝島に泊まること、船の時間が合ったので八島にも寄ってみたことを話した。それでも観光客が頻繁に訪れる島ではないのだろう、東京から来たこと自体をかなり驚かれた。
ご主人は住職だったが亡くなり、現在は息子さんが住職を継いでいる。ただし息子さんは大阪の寺におり、次男は柳井で暮らしているため、今はこの女性が一人で島に暮らしながら寺を守っているという。
人口がこれほど少ない島で一人暮らしと聞くと、こちらはつい「不便ではないのだろうか」と考えてしまう。しかし本人は、特に不自由を感じていないという。
せめて義務教育の小学校に児童が一人でも居れば、数人の先生が島の住民になる。島には郵便局が有るが局員は島の住民ではなく、上関から毎日通勤していると。もったいない…
「新聞も毎朝ここまで配達してくれるし」必要なものがあれば、二人の息子さんが送ってくれる。柳井からなら当日届くこともあるという。都会側から勝手に想像する「離島の不便さ」と、そこで暮らしている人が実際に感じている生活は、必ずしも同じではない。
現在の八島の人口を尋ねると、「10人」と教えてくれた。帰りの船で船員に聞くと「9人」。山口県の住民基本台帳では2025年4月時点で17人、2015年の国勢調査では28人となっている。数え方や時期によって数字は異なるが、ごく少数になっていることに変わりはない。
そして彼女は、「私が島に来たときは600人くらいいた」と話した。600人から、十数人へ。
数字だけを見るより、この島で何十年も暮らしてきた人の口から聞くと、その変化の大きさが急に現実のものとして感じられる。
八島小学校が廃校になったのは昭和63年(1988年)。最後の児童は自分と同じくらいの世代ということになる。八島中学校はさらに早く、昭和44年(1969年)に上関中学校へ統合され、それ以降、中学生は船で島外へ通学していた。
漁業も、今ではほとんどの人がやめてしまったという。港で見かけた小さな漁船も2隻ほどだった。島には現在、これといった産業もない。商店もなくなった。
「昔は何店舗もあったのになぁ」最後まで残っていた店も、店主が亡くなり前年に閉店したという。
島には今も郵便局がある。ただし局員は島の住民ではなく、上関から毎日船で通勤しているそうだ。小学校も、もし児童が一人でもいれば、先生やその家族など何人かの新しい住民が生まれる可能性がある。人口が一桁、十数人という規模になると、一つの学校、一つの仕事が島の人口構成そのものを変えてしまう。
かつての八島には海水浴客も多く訪れ、旅館が4軒もあったという。
「その料理とか掃除の手伝いの仕事もあったのになぁ」
今の静かな集落を歩いているだけでは、旅館が4軒あり、海水浴客で賑わっていた島の姿はなかなか想像できない。
さらに話を聞いていると、意外な歴史が出てきた。明治時代、八島から多くの人がハワイへ移住したという。すぐ近くの周防大島から始まったハワイ移民の流れは、八島にも及んでいた。昭和の頃までは、ハワイへ渡った島出身者やその子孫が里帰りすることも多かったそうだ。
「コーヒー豆とか、レイの花輪を土産に持ってきてね。でも3世の代まで行くと全く来ないね。一世の話を直接聴かないと、たぶん興味や実感がわかないんやろね」
「あぁ、せっかく来てもらったのにお茶も出さんと。麦茶飲んで休んでって」と麦茶を出してくれた。息子さんは龍谷大学を卒業して住職になり、今でもよく電話をくれるという。檀家は島だけではなく、柳井、広島、大阪、関東など各地に散らばっている。
「行事に来てくれる人がどんどん減ってねえ。料理も昔はみんなで作ったんだけど、今は買ったものを持ち寄ったりね」昔は魚を買う必要すらなかったという。毎朝のように漁師や檀家から魚をたくさんもらい、「こんな魚ばっかり食べられへんわ」と思うほどだったそうだ。
島の名物料理は何かと尋ねると、「名物なんかは知らんけど、嫁いできてみんなで料理を作ったら、島の奥さん全員同じ作り方で。ニンジンの切り方までみんな全く同じなんよ。それは驚いたなぁ。みんなこうやって料理習うんやなぁって」
有名な郷土料理の名前よりも、この話の方がずっと「島の食文化」を表しているように思えた。レシピ本があるわけでもない。島に嫁いできた女性が年上の女性たちと一緒に料理を作り、その作り方を覚える。その繰り返しによって、ニンジンの切り方まで同じになる。そうやって島の暮らし方が人から人へ伝えられていた。しかし、その「みんな」がいなくなれば、料理の作り方も一緒に消えていく。
開け放たれた障子の向こうから、涼しい風が本堂へ入ってくる。「昨日は台風で雨戸閉めてたんよ。ちょうどいま開けて風通しをしてるところで」
本堂の襖には、島出身の画家・川口健治が描いた風景がある。モチーフになったのは、この窓から見える八島の景色だという。「この寺の下の森も昔はなかったんよ。家が建ち並んでた。草も刈れんから、みんな緑になって」
縁側から見る景色は、緑に覆われた明るい夏の風景だった。しかし、その緑の一部は、もともと自然だった場所ではない。人がいなくなり、家がなくなり、草を刈る人もいなくなった結果、再び緑に戻っていった場所だった。
寺の鐘も、この島の時間を見てきた。戦時中の金属回収で鐘は供出され、その後長い間、半鐘のようなもので代用していたという。現在の鐘は、後年になって寄付を募って新しく造られたものだ。
話しているうちに、2時間半しかない滞在時間はあっという間に過ぎていた。
船が出るまで残り20分。桟橋横の堤防で少しだけ釣りをしてみることにした。海は驚くほど透明で、10mほど下の海底まで見える。餌を持っていないので、上関で食べた弁当の蓋に残っていたご飯粒を針につけて海へ落としてみるとすぐに20cmほどの魚が2匹釣れた。釣り人すら滅多に来ないのかもしれない。
八島にいたのはわずか2時間半。その大半を寺の本堂で話して過ごしたので、島をほとんど「観光」していない。それでも、ビャクシン群や神社を急いで見て回るより、この島で何十年も暮らしてきた人から話を聞けたことの方が、自分にとっては八島を知る時間になった。
600人ほどが暮らし、学校があり、何軒もの商店があり、4軒の旅館があり、漁師から毎日のように魚をもらい、寺の行事では女性たちが同じ切り方でニンジンを切っていた島。今、そこに暮らす人は十数人ほどになった。
島から人がいなくなるというのは、人口統計の数字が減るだけではない。仕事や店がなくなり、学校がなくなり、行事の形が変わり、人から人へ伝えられてきた料理の作り方や、遠いハワイとの記憶まで、少しずつ語る人がいなくなっていくということなのだ。
八島で偶然会った一人の女性との話は、島を歩いているだけでは見えなかった、もう一つの八島の風景だった。帰りの船も自分達だけの貸切だった。
八島(山口県熊毛郡上関町)