【八島】島の暮らしの話を聴く(山口県上関町)

室津港から1日3便ある連絡船で30分、590円。乗客は自分達だけだった。台風一過の瀬戸内の穏やかな海。事前情報は「島には店は無い」とだけ。折返しの船が出るまでの滞在時間は2時間半。



島の桟橋を出たところに地図が有った。島の北部に有るビャクシン群や、かつては集落が有ったのであろう八島神社は遠すぎる(142mの山を登って降りなければいけない)。集落の端の高台に在る浄慶寺に向かうことにした。

集落は小さく、現在も人が住んでいるような家はほとんど無い。道は細いがコンクリート舗装はされていて、坂道を登っていくとその浄慶寺にたどりついた。

本堂を覗くとちょうどそこに居た女性と目が合った。挨拶をすると中に上がるよう勧められた。住職のお母さんとの事。
「東京からわざわざ??」と驚かれる。今晩は祝島に泊まるが船の時間が合ったので八島に寄った旨を伝えた。

仙台の住職(ご主人)が亡くなり、息子が住職になったが今は大阪の寺に、次男は柳井の町で暮らしているので、今は島で一人で寺を守って暮らしている、島の生活に特に不自由は感じていないとの事。「新聞も毎朝ここまで配達してくれるし」。
島の人口は今は10人と話す(帰りの船で船員に尋ねたところ9人との事)。山口県の住民基本台帳には今年の4月時点で17人、2015年の国税調査では28人とある。「私が島に来たときは600人くらいいた」と話すので急減しているのは確かだ。
八島小学校が廃校になったのは昭和63年とのことなので、最後の児童は自分と同じ歳くらいだ。八島中学校は昭和44年に上関中学校と統合され、以降は船で通学していた。
漁業はほぼみんな辞めてしまったとの事。港には小さな漁船が2隻だけ有った。島の産業は今はもう無く、収入はほぼ年金なのだろう。商店も最後の店の店主が亡くなったので昨年なくなった「昔は何店舗も有ったのになぁ」。

せめて義務教育の小学校に児童が一人でも居れば、数人の先生が島の住民になる。島には郵便局が有るが局員は島の住民ではなく、上関から毎日通勤していると。もったいない…
かつては海水浴で訪れる人も多く、旅館も4軒有った「その料理とか掃除の手伝いの仕事も有ったのになぁ」。島に観光客は来ないのかと言う話から、かつて明治時代に八島の人の多くがハワイに移住したことを知った。ハワイ移民はすぐ近くの周防大島の人の国策移住がきっかけだ。昭和の頃は里帰り帰国する人も多かったようだ。「コーヒー豆とかレイの花輪を土産に持ってきてね、でも3世の代まで行くと全く来ないね、一世の話を直接聴かないとたぶん興味や実感がわかないんやろね」。
「あぁ、せっかく来てもらったのにお茶も出さんと。麦茶飲んで休んでって」
龍谷大学を出て住職になった息子からはよく電話がある。檀家は柳井や広島、大阪、関東にばらばら。「必要なものは子供二人が送ってくれるし、何なら柳井からなら当日届くし、本当に不便してないんよ。でも行事に来てくれる人がどんどん減ってねえ、料理も昔はみんなで作ったんだけど今は買ったものを持ち寄ったりね。昔は魚を買った事なんて無かった、毎朝漁師さん檀家さんからたくさん貰ってね、こんな魚ばっかり食べられへんわって。島の名物料理?なんやろなぁ…名物なんかは知らんけど、嫁いできてみんなで料理を作ったら、島の奥さん全員同じ作り方で。ニンジンの切り方までみんな全く同じなんよ。それは驚いたなぁ、みんなこうやって料理習うんやなぁって」
どうやら島の最後の子供は自分と同年代、住職は少し年上か。その母親なので、おばさんは自分の親と同年代だ。
障子を明け放した窓からは涼しい風が入る。「昨日は台風で雨戸閉めてたんよ、ちょうどいま開けて風通しをしてるところで」。本堂の白墨の襖絵はこの窓からの景色を、島出身の画家-川口健治-が描いたものだ。「この寺の下の森も昔は無く、家が建ち並んでたんよ、草も刈れんからみんな緑になって」。夏の明るい景色。



寺の鐘は戦争中の金属回収で無くなり、昭和63年だっけ(←記録撮らず忘れた)に寄付を募って新造したもの。それまでは半鐘のようなものしかなかった。
短い滞在時間はあっという間。船が出るまで最後の20分、桟橋横の堤防で釣りをした。さすがに水はきれいで10mくらいの深さの海底が見える。エサが無いので上関で食べた弁当のフタについていたご飯粒を針にさして海に落としたら、20cmくらいの魚が2匹すぐに釣れた。釣り人すら滅多にいないのだろう。
帰りの船も自分達だけの貸切だった。
八島(山口県熊毛郡上関町)
