【佐合島】新島民から島の生活を聴く(山口県平生町)












「サバニ操船体験」に参加し、佐賀漁港からサバニに乗って佐合島へ行った。主催者の原さんは佐合島に”基地”(小屋)を持っており、そこで昼食をとった。
小屋は、廃校になった佐合島小学校の跡地に建てたもの。原さんはそこで小学生向けに”冒険学校”(野外活動)を行っている。
ダイドック冒険学校
原さんがスパイスカレーを作ってくれている間、スタッフの宮崎さんが島を案内してくれた。宮崎さんは埼玉県出身、日本各地を旅行中に原さんと出会い、平生町への移住を決断したとの事。最初は地域おこし協力隊員として平生町に赴任し、任期を終えた今はこの佐合島に家を安価で購入し暮らしている(本当に安価らしい。価格は教えてくれなかったが)。
毛利統治時代、佐合島の山には見張り所が有り、船を見つけると上関に知らせるために狼煙を上げた。上関は長州三関の一つ(あとは中関、下関)で、瀬戸内海を航行する船から関銭・関賃(通行料)をとっていた。
島の人口は20人ほどとの事。家屋はそれ以上に有るように見える。明治時代は1000人以上、昭和30年代も500人くらいは暮らしていたが、高校進学以降はほぼ全員が島外で暮らす。若い人が居なくなり、次いで子供が居なくなり数年前に小学校も廃校になった。
しかし1000人以上もの人がこの島に暮らしていたというのは驚きだ。海峡部で潮の流れが有り魚が多かったのかもしれない。漁業は盛んで古くから対馬まで出かけていた人もいたそうだ。そして漁業だけではなく島に田畑も有ったとの由。畑はどんな島にでも有るものだが、水が大量に必要な水田はよほど大きな島でないと見かけることは少ない。この島は1000人が暮らせるだけの水も有ったのだ。
簡易水道が全戸に引かれているのだが、この島は水が豊富で今も井戸が現役で残っている。井戸の伏流水で手足を洗った。
訊くと、島に下水は無く屎尿は汲み取り。原さんが手押しの汲み取り車で年に2回一軒づつ廻っているとの事。下水管敷設はさすがに金銭負担が大きすぎるのだろう。人口200人以上いる祝島では屎尿運搬船を新造したそうだが、それでも下水敷設よりも安いのだろう。
宮崎さんが「やぶ蚊が多いのですが…」と言いながら案内してくれた、石階段を登った山の中腹に有る神社は小ぶりで無人だが、きれいにされていて建物はしっかりとしたつくり。鳥居や石柱には江戸から昭和の年号が彫られている。宇佐八幡宮から勧請(分霊)した神社とのことなので、中世から瀬戸内海を挟んで九州との往来が盛んだったのが分かる。宇佐八幡宮から連想すると言えば道鏡事件。宇佐八幡宮は朝廷と結びつきが強い。ここも京都から九州への航路の中継地だったのだろう。
今は集落はこの港の周りにあるだけだが、かつては広く広がっていて、島を一周する道が有ったらしい。島の南側にある浜は少し前までは海水浴客が本土からも来ていたようだが、今は居ない。山の裏側にある浜へは舟を使ってでしか行けない。
島の住職が遠くで何か作業をしていたのが見えたが話せず。原さんと宮崎さん以外の見かけた島民はこの住職だけ。人影の無い島の家の連なりの路地を歩き、宮崎さんの住む家の前を通った。堂々とした一軒家で、普通は一人暮らしで住む家ではない。中庭には作業小屋のような建物もある。もちろん不動産屋が斡旋した物件ではなく、「たまたま安く譲ってもらえた」と。
今回の島の訪問時にも一軒建物が解体されているようで、解体された資材がまとめられていた。処分、島外への運搬には費用がかかるので、ほしい人が居たら持って行ってよいと言う。
“基地”に戻ってカレーを美味しく食べた。陽射し有る天気のせいかもしれないが、人口急減の島ものどかで、むしろ雰囲気は明るい。
今回は舟を漕いできたわけだが、島への連絡船は毎日5往復有る。当然電気・通信は有り、生活はそう不便では無さそう。どこででも出来る仕事さえあれば釣りをして暮らす島の生活も悪くないように思えた。

