夕べには白骨となれる身なり
先週末、棟梁だった叔父(母の兄)が急死した。自分の作業場である建物の屋根から落下したらしい。”らしい”というのは目撃者が居ないからだ。なぜ屋根の上に登る必要があったのか、登って何をしていたのかすら分かっていない。非常に急な出来事だった。
葬儀は浄土真宗のものだった。この集落(母の育った集落)は、北陸や北近畿に多い典型的な浄土真宗本願寺派(一向宗)を中心とした農集落で、母親の家系はそこで代々大工として生計を立てていた。集落の住民の信仰心は篤い。僧侶は「ご縁さん」と親しみを込めて呼ばれる。住民皆が幼少時から家族ぐるみで接していて、都会のような「葬式の時だけ」の繋がりではない。
生前の棟梁である叔父をこれまで支えてきた叔父(長姉の夫)の?導で正信偈を唱える。この仏間である座敷に親戚が集うのは最近では法事ばかりになってしまった。自分の幼少時に正月や盆に集まってゲームをしていたのが遠い過去のようだ。
「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」。今回はまさにそのとおりで、説法も当然これを引用したものだった。信仰を意識して生きるものは幸せだ。宗教を信じない者も「##教?信じない」という事を信じて生きている。信じるものは宗教でなく金でも、誰か特定の人間でも良い。何も意識しない、信じるも?の無い者は哀れだ。自分はどうだ??
母は昔の話を(自分は聞きたいのだが)滅多に話ししてくれない?だが、今回は断片的に少し聞いた。まだ知らない事があまりにも多い。いずれ聞きたくても誰も知らないようになるので、そうなる前に書き留めたいのだが。