彼は意思が固く有言実行だった

高校入学式を終え教室に入り、指定された席に着く。座席は氏名の五十音順。少し変則的なクラスで女子20人、男子15人。入学時には知らない人ばかり...になると思っていたが、そうでもなかった。一つ前の席の男が後ろを向く、あれ、見たことの有る顔だ。

中島とは中学のときに通っていた塾で会った。塾では同じクラスだったのだろうか、今となってはほとんど記憶が無い(中島はサボることが多かった...)のだが、知っている顔が居るというのは嬉しいことだ。中島は、隣の町の安土中学の出身だ。

中島はどこか少し変わっていた(僕が言うなよ…)。奇抜な行動をするわけでもなく運動も出来る(体育の授業でサッカーをしているところを見たくらいだが)のだが、目立つと言うわけでもない。群れることは無く、大人びていて達観していると言うか。 人を虐めたりすることはありえない性格だった。

今でも記憶に残る情景が有る。ダイエーの3階のゲームセンターや、「ストロベリーフィールド」などの書店に入り浸っていたあの頃。中島は唐突に言った。「自分は東大に行く」と。それは普通に考えるとあの高校では有りえない選択肢であり、自分は何も言葉を返さなかった。

彼は形から入った。赤本を買って過去問を読んでいた。”読んでいた”というのは当時の学力では太刀打ちできず、その時は出題の内容が理解できないと思われたからだ。全く太刀打ちの出来なかった駿台の模試を受けて京都から帰る電車で彼は言った。「自分は東大に行く」。

休み時間は中島・川勝・中西(自分)の3人でよく遊んでいた。共通点は歴史好きということだった。休み時間に日本刀のカタログを見たり、歴史書をみて家系図を書いている高校生というのは今思えばかなり変だが、まぁ高校時代というのは何かにどっぷりと浸るものだ。川勝の歴史狂は尋常ではなく、「英語と数学さえ出来たらなぁ」という愚痴をよく聞いた。彼は愛媛大に進むのだが、愛媛大では何年ぶりかの国家Ⅰ種試験の合格者となった。

高校を出て数年が経った。自分は大阪の私大に進んだ。その頃に自分と接点を持っていた高校の同級生は、川勝など数人だけだった。中島の話題はたまに出たが、中島は東京に行った事も有り、僕と会うことは無くなった。

そんな中島と再会したのは、僕が東京に出てきて起業をして数年が経った時だった。彼は東京大学の大学院で医学博士課程に進んでいた。僕のブログを彼が見つけ、メールを送ってきたときの僕の驚き、どう文章に表したらよいだろう。

先週、中島は結婚式を挙げた。彼らしい式だった(←と表現するのが一番似合っている)。中学、高校、大学、大学院、病院の人が集まっての式で、それぞれの立場の人がスピーチをするのだが、それぞれの立場を表していて興味深かった。

研究室での彼の様子を見たことは自分は無いが、「あぁ、彼ならそうだろう」と思えるようなエピソードばかりだった。小学校からの幼馴染のスピーチと歌が、一番印象に残った。

「東大に入る」夢を叶えた彼のこれからの夢は何だろうか。


披露宴で中山元大臣が「彼は蒲生郡安土町で産まれ、蒲生郡というのは蒲生氏の元領地で」と紹介したが、あれは蒲生氏の子孫である中島の立場を知っての事だったんだろうか。アドリブのようだったが。


中学時に塾が同じだった知人と会ったが、あまりにも変わっていてお互いに分からなかった。中学も高校も異なるのに、こんなところで知人数人の近況を知るとは。

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