50年前のヤクーツクに居た元日本人

50年前のベルホヤンスク旅行記を読んでいると、著者が帰路にヤクーツク滞在中で出会った人の記述があった。すごく興味深いので転載。
「世界でいちばん寒い国~日本人はじめて寒極に行く~」
岡田安彦 1966年 講談社
夕食を済ませレナホテルで資料を整理していると、ノビコフ氏より「ちょっと来ないか」と電話がかかって来たので彼の部屋に行くと、花模様のスカートに紺色ジャケツを着た中年の女性が居た。髪も目も黒いのでヤクート人かと思いロシア語であいさつをすると彼女もロシア語で応えた。
彼女の目から薄く涙がこぼれるのに気付いた、そして意外にも彼女の口から流ちょうな日本語がとびだした。
「日本人と話をするのは本当に久しぶりで、ついなつかしくて...」
この女性はヤクーツクでは”李 オリガ”と呼ばれ、終戦までは”恒本敏子”または”李敏子”の名前をもって、朝鮮北部の羅津に住んでいた朝鮮人だった。父は朝鮮人、母はロシア人で、このヤクーツクに住むまでの経歴は数奇に満ちたものだった。
ウラジオストクで1925年(追記1929年では?)に生まれた彼女は、まもなく両親とともに満州のハイラルに移住した。小学生の時に父親が亡くなったので、父親の親類をたよって羅津に母と移住した。小学校から羅津高等女学校にすすみ、日本人と共に学んでいたが16歳の4年生の時に終戦を迎える。
母親からロシア語を習っていたので、進駐してきたソビエト軍の通訳をしているうちに、日本人はみな日本に引き揚げた。その後母親と共に カムチャツカ半島のオホーツク、沿海州のニコラエフスク、 ハバロフスクと転々として、工場労働者として働いてきた。ニコラエフスクで母親は亡くなり、そこでロシア人の現在の夫と結婚した。1961年、ハバロフスクからヤクーツクに移住した。少しでも給料の高いところへと思ったからだという。夫もロシア籍だが混血で、父親は朝鮮人、母親は日本人。二人には13歳をかしらに3人の子供がいる。
レナホテルに日本人が居るとヤクーツクの街では噂になっており、じっとしていられずにやって来たのだと言う。
彼女にとり少女時代の羅津高女時代が、今では一番懐かしい思い出のようだった。
「あの頃一番仲が良かったのは磯島しず子さんでした。家が隣で、お互い母一人子一人の境遇も似ていました。磯島さんは無事に日本に帰ったでしょうか。元気なら一度会って話がしたい」彼女の眼はうるんでいる。
「校長先生は石井隆。クラスの級長は佐々木英枝さん、」これまで20年間記憶の底に眠っていた日本語があふれでてくる。
「今では朝鮮に帰りたいとは思いません。3人の子供はロシア語しか話せません。今はソ連に永住しようと市民権をとるきもちになったのです」辛い時は羅津の頃を思い出すようにしていて、ラジオでNHKの短波放送を聞いて慰めている~~
上記から50年。ソビエト連邦は崩壊した。彼女の育った羅津はもちろん今は日本ではなく北朝鮮。 彼女はもう生きていないだろう(生きていたら88歳)。でも彼女の子供は1/4は日本人の血が流れている(1/4ロシア,1/4日本,1/2朝鮮)。あの極寒のヤクーツクに見た目はヤクート人でロシア語を話しす”日本人”は居るのだろうか。